「マキアヴェッリ語録」を読んで

マキアヴェッリ語録

マキアヴェッリ語録


今日、塩野七生マキアヴェッリ語録』を読み終わった。


マキャヴェリのいろんな著作からの名句の抜粋集で、君主論などのよく知っている語句もあれば、手紙などのあんまり私は知らない語句もあって、とても面白かった。


ところどころ、とても胸打たれ、あらためて時空を超えて、マキャヴェリの心に深く感じ入った。


マキャヴェリは誤解が多い人物だが、通俗的マキャヴェリズムとは全然違う、本当に崇高な、深い深い祖国愛に満ちた人物だったと、これらの言葉を読んでいてあらためて思った。


運命の猛威に対して、なんとか愛する祖国を自らの足で立つ独立国にしたいという、燃えるような思いから、これほどの思索と言葉を紡ぎ続けたのだろう。


韓非子もそうだけれど、マキャヴェリほど高潔で深い正義感と人間愛があった人物は、甚だ逆説的ではあるようだけれど、めったにいないと思う。
そうであればこそ、これほど現実に深い責任感を持ったのだろう。


この「マキアヴェッリ語録」でマキャヴェリの言葉に直接触れる日本人が増えれば、今の日本の政治的混迷の脱却もきっと進むかもしれない。


読みながら、「あぁ、このアドヴァイスを菅さんが活かしてくれていたら…」とか、「あぁ、この言葉を鳩山さんが知っていたならば…」とか思われることがたびたびあったが、吾々国民こそが、まずはしっかりと、この本などから、マキャヴェリを学びなおす方が良いのかもしれないなぁ。。





なにかを為しとげたいと望む者は、それが大事業であればあるほど、自分の生きている時代と、自分がその中で働かねばならない情況を熟知し、それに合わせるようにしなければならない。
時代と情況に合致することを怠ったり、また、生来の性格からしてどうしてもそういうことが不得手な人間は、生涯を不幸のうちにおくらなくてはならないし、為そうと望んだことを達成できないで終るものである。
これとは反対に、情況を知りつくし、時代の流れに乗ることのできた人は、望むことも達成できるのだ。
(112頁 政略論)


君主は、民衆がなにか誤りを犯したとしても苦情を言うことはできない。
なぜなら民衆の犯した誤りは、統治者側の怠慢からか、そうでなくとも、統治者が犯したことを、彼らもまた踏襲しているにすぎないからである。
リヴィウスは言っている。
「大衆は常に、政治を行なう者を模倣する」
ロレンツォ・デ・メディチも、これに同意見だったらしく、次のような 言葉を残している。 「君主が行うことを、大衆もまた行う。なぜなら、彼らの視線は、常に、 統治者に向けられているからだ」
(122頁 政略論)


わたしが、共和国ですらもともと個々の偉大な君主的器量(ヴィルトゥ)の持主や組織者の力がなくてはつくり出せないと考えている以上、私の共和主義的理想は、そのことによって最初から、君主主義的色合いを持っているのかもしれない。
(123頁 手紙)


歴史は、われわれの行為の導き手(マエストロ)である。
だが、とくに指導者にとっては師匠(マエストロ)である。
人間社会には、相も変わらず同じことを考え、同じことを望む人間が棲んできたのだ。
社会構造が変わっても、誰かが支配し、誰かが支配され、ある者は喜んで支配され、他の者は不満たらたらで支配されるということならば、なにひとつ変化はなかったのである。
そして、それに反逆した者も結局はもとのさやにもどるということでも、同じなのだ。
(124頁 ヴァルディキアーナ地方の住民の統治方法について)


ここでは、民衆(ポポロ)に関して、次の二つのことに注目してほしいのだ。
第一は、民衆というものはしばしば表面上の利益に幻惑されて、自分たちの破滅につながることさえ、望むものだということである。
第二は、そしてもしも、彼らから信頼されている人物が彼らに事の真相を告げ、道を誤らないよう説得でもしなければ、この民衆の性向は、国家に害を与え、重大な危険をもたらす源となる、ということだ。
(154頁 政略論)


古代ローマの歴史家ティトウス・リヴァイスはこう言っている。
「運命は、自分の考えが中絶されるのを望まない場合、その人を盲にしてしまう」と。
これほど真実を射た意見はない。
だからこそ、好調を謳歌する者も逆境に泣く者も、賞賛されたりけなされたりすることはないのである。
なぜなら、好調も逆境も、ある人には好機を恵み、あるひとからは取りあげるというふうに、天が与えた境遇にひたっているにすぎないからだ。
運命はなにか偉大なことを為そうとするとき、運命の好機に気づき、それを活用する気概にあふれ、才能にも恵まれた人物を選ぶものである。
反対に、破滅を呼びたいと望むときは、それに適した人物を選ぶ。
そして、もし誰かがこの運命の意思に反旗をひるがえそうものなら、殺してしまうか、それとも運命に逆らうことなどできないように、その人のすべての力を奪ってしまうかするのである。
人間は、運命に乗ることはできても逆らうことはできないというこのことは、歴史全体を眺めても、真理であると断言できる。
人間は、運命という糸を織りなしていくことはできても、その糸をひきちぎることはできないのである。
ならば、絶望するしかすべはないかとなると、そうでもないのだ。
運命がなにを考えているかは誰にもわからないのだし、どういうときに顔を出すかもわからないのだから、運命が微笑むのは誰にだって期待できることだからである。それゆえに、いかに逆境におちいろうとも、希望は捨ててはならないのである。
(181頁 政略論)


力量(ヴィルトゥ)に欠ける人の場合、運命(フォルトゥーナ)は、より強くその力を発揮する。
なぜなら、運命は変転する。国家といえども、運命の気まぐれから自由であることはむずかしい。
だから、誰か古代の実例に深く思いを馳せる人物があらわれて、古代のローマ人をまね、つまり頼れるのは自力のみということに目覚め、運命が自由勝手にふるまうのを牽制する必要があるのだ。
でなければわれわれ人間は、いつまでも運命の命ずるままに流されてしまうことになるだろう。
(183頁 政略論)


なにかを為したいと思う者は、まずなによりも先に、準備に専念することが必要だ。
機会の訪れを待っての準備開始では、もう遅い。幸運に微笑まれるより前に、準備は整えておかねばならない。
そのことさえ怠りなくやっておけば、好機が訪れるやただちに、それをひっ捕らえてしまうこともできる。
好機というものは、すぐさま捕まえないと、逃げ去ってしまうものである。
(186頁 戦略論)


過去や現在のことに想いをめぐらせる人は、たとえ国家や民族が違っても、人間というものは同じような欲望に駆られ、同じような性向をもって生きてきたことが分かるだろう。
だからこそ、過去の状態を詳しく学ぶものは、現在のことも容易に判断がつき、古の人々の行為を参考にして、対策を立てることもできるのである。
また、仮に完全に同じ状態が過去に見出せなかったとしても、本質的には同じなのだから、現在のことへの対し方も、容易に見通しがつくというものである。
しかしこの教訓は、往々にして無視されるか、たとえ読んだとしても理解されないか、でなければ為政者に通じないかして、活かされない場合が多い。
それゆえ、人類はいつになってもあいも変わらず、同じ醜態を繰り返している訳である。
(186頁 政略論)


人は、ほとんど常に、誰かが前に踏みしめていった道を歩むものである。先人が行ったことをまねしながら、自らの道を進もうとするものだ。
それでいながら、先人の道を完璧にたどることも、先人の力量に達することも、大変にむずかしい。それで賢明な人は、踏みしめる道にしても誰のものでもよいとせず、衆に優れた人物の踏みしめた道をたどろうと努め、そのような人の行動を範とすべきなのである。たとえ力量が及ばなくても、余韻ぐらいにはあずかれるからだ。
言ってみれば、これは慎重な射手のやり方である。的があまりにも遠すぎ、自分の力ではそれに達するのが不可能と思った場合、射手は的を、ずっと高いところに定める。狙いを高く定めることによって、せめては的により迫ろうとするからである。
(192頁 君主論


人は、古代の彫刻のかけらを巨額の金を出して購入し、身近に置き、他人に見せびらかし、果ては模造品をつくらせたりすることには熱心だが、歴史がわれわれに知らせてくれる故人の気高い行為についてとなると、同じような敬意を払ってきたであろうか。
人々は、歴史上の人物が祖国のためにつくした行為に対して、賞めたたえ感心するが、まねしようとしないのが一般的である。
わたしには、この種の傾向は、それらをまねした場合の利益を考えると、残念でならない。
この傾向は、キリスト教の悪影響によると思う。なぜなら、古代人は、それが良くても悪くても野望というものに相当の敬意を払ったが、キリスト教では、野望をいだくこと自体が悪だったからである。
(194頁 政略論)


人間にとって最高に名誉ある行為は、祖国のために役立つことである。
具体的には、法律を制定し、制度を整備することによって、国の改革に力をつくす人々のことである。 彼らこそ、誰よりも賞賛されてしかるべきであろう。
なにしろ、少数の人々だけがそれをやる機会に恵まれ、その中でもさらに少ない数の人間が、その機会を活用できるのであり、そのうえこの中でもほんの数人が、実現させる人になるのだ。
だからこそ、人の望みうる栄光のうちでも最高の栄誉が与えられるべきである。
また、国家を動かす機会に恵まれなかったが、ペンによってその方策を人類に示した人々、プラトンアリストテレス、その他の同類の人々も、人類からの尊敬を受けるに十分だと信ずる。
この種の人々は、ソロンやリュクルゴスのように、現実の国家は動かせなかったが、 それは、彼らが無知であったからではない。ただ単に、当時の情況が、彼らにそれを許さなかったのである。
(195頁 フィレンツェ共和国の今後について、メディチ家の質問に答えて)


人間というものは、必要に迫られなければ善を行わないようにできている。
それゆえ、全てが自由放任であると誰もが勝手気ままに行動してしまい、世の中は混乱と無秩序のみが横行することになる。
もしも、法律など存在していなくてもすべてが良き方向に進むような世の中ならば、法律は不要になるであろう。だが、このような良き風習が支配的でない場合は、法律で規制することが必要になってくる。
(208頁 政略論)


いかに多くの人のためになることでも、新たな大事業を提唱するのは、提唱者にとって大変な危険を伴わずにはすまない。
しかも、この種の危険は、提唱した時点で終わりにならないのだ。計画を推し進め、完成させ、その後でも支障なく運営していく段階でも、危険は少しも減らないときている。
この種の危険は、なぜ生ずるのか。
それは、人間というものは結果を見て評価をくだすものだし、もしもその事業の成果が充分でなければ、責任はすべて、提唱者であるあなたに押しつけるからだ。
反対に結果がよければあなたは賞賛されるが、大事業とて勝負は長期にわたるので、あなたが受けるのは賞賛よりも非難のほうが多いと覚悟していたほうがよい。
それで、このともなわずにはすまない危険をどうしたらいささかでも避けることができるかだが、それはもう、事を進めるのに可能なかぎり控え目にやる、をモットーとするしかない。
つまり提唱者は自分であるということを明示してはならず、そのうえ、提唱する際にも、やたらと熱意をこめてやってはならない。
この種の配慮は、たとえあなたの考えが実行に移されても、それは彼らが自身で望んだからであって、あなたの執拗な説得に屈服したからではないと、思わせるためなのである。
このやり方で貫けば、あなたの提唱による事業は人々の反対を押し切って強行されたことにならないから、たとえ経過や結果が良と出なくても、あなた一人に責任をかぶせるわけにいかなくなる。
しかしこのやり方だと、結果は上々でもあなたの得る名誉や賞賛は、周囲の反対を押し切ってやった場合に比べて、ひどく少ないだろう。だが次の二つの利点が、この欠点をつぐなってくれるにちがいない。
利点の第一は、危険を一身で負わなくてよいということである。
第二は、もしもあなたの提唱する考えが容れられず、代わりに他の人の案がとりあげられ、それが失敗に終わった場合、今度はあなたが先見の明があったということで賞賛される、という利点だ。
もちろん、あなた個人は賞賛されても、国が痛手をこうむるのでは困った事態だが、それもなお、このことはこころしておいてよいと思う。
(212頁 政略論)


中ぐらいの勝利で満足する者は、常に勝者でありつづけるだろう。
反対に、圧勝することしか考えない者は、しばしば、陥し穴にはまってしまうことになる。
(214頁 フィレンツェ史)


きみには、次のことしか言えない。
ボッカッチョが『デカメロン』の中で言っているように、
「やった後で後悔するほうが、やらないことで後悔するよりもずっとましだ」
という一句だ。
今日きみが享受している、恋することによって得る喜びは、明日になればもう受けられないものなのだよ。それを受けているきみは、わたしにすればイギリスの王よりもうらやましい。
(217頁 手紙)


われわれが常に心しておかねばならないことは、どうすればより実害が少なくてすむか、ということである。
そして、とりうる方策のうち、より害の少ない方策を選んで実行すべきなのだ。
なぜなら、この世の中に、完全無欠なことなど一つとしてありえないからである。
218頁 政略論)


天国へ行くのに最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである。
218頁 手紙)