- 作者: フリードリッヒニーチェ,Friedrich Nietzsche,信太正三
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1993/07/01
- メディア: 文庫
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ふと気になって、この数日でニーチェの「悦ばしき知識」を読んだ。
前から気になってたのだけれど、通読ははじめて。
正直なところ、ニーチェ的饒舌に辟易するところもあったし、玉石混交な気もするが、ところどころ宝石のような文章やことばがきらめているのは事実と思う。
以下のことばは、なるほど〜っと思った。
「原因と結果。―ひとは、結果以前には、結果以後のとは別な原因を信じているものだ。」
(第三書 二百十七節 265頁)
「各人にその分を(Suum cuique)。―私の認識欲がどんなに貪婪であろうとも、すでに私のものとなっている以外の何ものをも私は事物から取りだすことはできない、―自分以外の者に属する物はそのまま事物のなかに残存する。人間というものが盗賊だったり強奪者だったりするなど、そもそもありうることだろうか!」
(第三書 二百四十二節 274頁)
「認識者の嘆息。―「おお、わが貪欲よ!この私の魂には無私の住処なぞ一つもない―ここに染んでいるのは、むしろ、ありとあらゆるものを渇欲する一個の自己だ。―この自己は、自分の眼を通じて見るごとくに多くの個体を通じて見ようと欲し、自分の手をもって掴むがごとくに多くの個体を通じて掴もうと欲する。―全過去をもあげてことごとく取り戻そうとする自己、およそ自分に帰属すべきものは何一つ失うまいと欲する自己だ!おお、このわが貪欲の炎よ!おお、私が百の存在となって再生することができたなら!」―この嘆息を経験からして知ることのない者は、認識者の情熱をも知ることはない。」
(第三書 二百四十九節 277頁)
「狼狽に反対し。―いつも余念なく深く仕事に打ち込んでいる者は、どんな狼狽をも超越している。」
(第三書 二百五十四節 279頁)
「独創性。―独創性とは何か?あらゆる人の眼の前にあるものなのに未だ名を有たず、いまだ名づけられえないでいるものを、見ること、がそれである。人の世のつねとして、およそ事物というものを人間にはじめて見えるようにするものは、名称なのだ。―独創性ある人間は、おおむね、命名者でもあった。」
(第三書 二百六十一節 281頁)
「新しい年にのぞんで。―なお私は生きており、なお私は考える。私はなお生きなければならない、私はなお考えなければならないのだから。われ在り、ゆえにわれ思う(Sum,ergo cogito)、われ思う、ゆえにわれ在り(cogito,ergo sum)。今日ではは誰でもが思い思いに自分の願望や最愛の思想を表明している。さればこそ、私もまた、私が自分自身に今日何を望むかを、また、どんな思想がこの年いち早く彼の心をかす去ったかを、語るとしよう、―どんな思想が私の今後の全生活の根拠、保証また甘味であるべきなのかを、語るとしよう!私は、いよいよもって、事物における必然的なものを美と見ることを、学ぼうと思う、―こうして私は、事物を美しくする者たちの一人となるであろう。運命愛( Amor fati) 、―これが今よりのち私の愛であれかし!私は醜いものに対し戦いをしかけようなどとは思いもしない。私は非難しようとは思わぬし、非難者をすら非難しようとは思わない。眼をそむけること、それが私の唯一の否認であれかし!そして、これを要するに、私はいつかはきっとただひたむきな一個の肯定者(ヤー・ザーゲンダー)であろうと願うのだ!」
(第四書 二百七十六節 289頁)
「物理学万歳!−一体どれだけの人間が、観察するすべを心得ているというのは!それを心得ている僅かの者のうち、―どれだけが自分自身を観察できるだろうか!「自分自身に最も遠い存在は、各人それ自身である」
(中略)
われわれが本来それであるところの者となることを欲するのだ、―新しい人間、一度きりの人間、比類ない人間、自己立法的な人間、自己自身を創造する人間に、なることを欲するのだ!そのためには、われわれは世界における一切の法則的なもの、必然的なものの、こよなき学び手となり発見者とならねばならない。この意味での創造者でありうるためには、われわれは物理学者でなければならない、―それなのに、これまでのところ、あらゆる評価と理想は、物理学の無知もしくは物理学との矛盾の上に築かれていた。それなればこそ、物理学を祝して万歳を!さらに、われわれを強いて物理学へと向かわせるもの、―われわれの誠実、に対していっそうの万歳を!
(第四書 三百三十五節 348頁)
他にも、以下のメッセージは触発・啓発されるものがあった。
・情念の歴史、貪欲等の歴史を、ひとつひとつの時代や社会に即して書くこと。
・非凡な人とは、いわば隔世遺伝であり、過去の良い社会や歴史からの隔世遺伝であること。
・知を摂取同化することは、人類のまだまだこれからの課題であること。
・所有欲や愛よりも、古代ギリシャ人は友情を上とみなしていたこと。
・古代ギリシャ人は哲学者以外は皆奴隷だとみなしていたこと。(84頁)
・徳についてのかつての教説は、個人存在を全体の機能に変えてしまうものであったこと。
・過去数世紀の科学の発達は、ニュートン的・ヴォルテール的・スピノザ的の三つの錯覚から生じていたこと。(107頁)
・エピクロスへの共感。エピクロスが地中海を眺めているビジョン。(115頁)
・困窮の知識、つまり実際の肉体的な困窮の知識の有無が、中世と現代との違いであり、現代を漠然としたペシミズムに向かせるものであること。(118頁)
・他人がわれわれについて知るところのもの、の重要性。(122頁)
・仮象の意識(123頁)認識者―仮象―現存在
・高貴な精神とは「自分以外のすべての他の人には冷たく感じられる物事に熱さを覚える触感をもつこと」(125頁)
・創造者としてのみ。事物が何であるかよりも、事物がどう呼ばれるかということの方が重要であることを洞察すること。新しい事物を創造するには、新しい名称と評価ともっともらしさとを創造するだけで十分であること。(133頁)
・男の本性は意志、女の本性は応諾。(140頁)
・古代ギリシャは、劇場という遠方から眺めることにより、人間への理解や洞察を得たこと。
・古代ギリシャは「美しい対話を聞こう」として、悲劇や喜劇にも臨んでいたこと。(154頁)
・「芽が樹になれ」と願うこと。(193頁)
・四つの錯覚。人間はいつも不完全にしか自分を見なかった。架空の性質を自分に帰した。動物や自然に対する誤った位階関係において自らを把握した。新しい価値表を変わらないものと考えて設定して、そのつどいろんな衝動の順位が変わったり、聖化されたりした。(210頁)
・意志が起るためには、一、快と不快の表象が必要。二、刺激を快・不快と感じさせるのは、解釈する知性の業(わざ)である。三、快・不快および意志があるのは知性的存在者に限る。(223頁)
・我々はいつもただ我々の仲間の中にいる。(247頁)
・思想というものは我々の感覚の影である。(252頁)
・人格的摂理。すべて欠かせないもの。共に演奏。(290頁)
・結末を見つけるすべを心得ること。(295頁)
・自分自身への信仰。自分の中に巣食う懐疑家への論駁・説得。(298頁)
・一事こそ大切だ。自分の性格に様式を与えること。人間が自分自身の満足に到達すること。
・短い習慣。
・考えながらに感受する人間こそは、まだ現存しないところのものを実際に、また不断に、作り上げる者なのだ。人間にとって意味のある世界を創造する。(317頁)
・人生は認識者にとって一個の実験でありうる。(337頁)
・「真面目な」陰鬱な思考より、笑いと悦ばしさのある思考を。(340頁)
・愛することを学ばなくてはならぬ。音楽のように、はじめは馴れなくなじめなくても、我慢する努力と善意がなければならない。それがあれば、なれないものはヴェールを脱いで、美しいものを見せてくれる場合もある。(347頁)
・人類の歴史を総体として自己の歴史と感じること(355頁)
・友を、自分を助ける仕方でのみ助けよ。同喜共歓の生き方をこそ。(359 頁)
・熟知のもの、慣れっこのものこそ、認識が難しく、認識すべきこと。
・自分の中で、自らの時代を超えること。
「隠れた歴史。―すべて偉大な人間は、過去へと働きをおよぼす遡及力をもっている。あらゆる歴史は、彼あるがためにふたたび天秤にかけられ、そして過去の幾千となき秘密がその隠れ家から這い出してくる―彼の太陽の下へと。どういうものがいったい今後さらに歴史となるのかは、皆目みきわめがつかない。過去はおそらく今もってなお本質的には未発見のままなのだ!なおも非常に多くの遡及力が必要である!」
(第一書 三十四節 104頁)
これらのことばからのインスピレーションをどう生かすかは、詠み手の側次第なのだろう。
笑いや喜びのある思考を軽やかに行いながら、同喜共歓の人生を歩み行くこと。
それこそが、ニーチェの言いたかったことなのだろうと、私は今回この本を読んで感じた。
ニーチェの言葉のすべてに共感するわけではないし、いくつかどうにも首をかしげ、同意しかねるところもあるけれど、その点については、全く共感するし、なんとか自分の人生に生かしていきたい点だと思う。