本説
第一 永遠に輝く霊的人格
一、 総 説
永遠に照り輝く我が祖の霊的人格を標準として、我等は血脈を相承せる末裔の本分たる自己の人格を形成せんことを期す。さて皮髄とは、宗祖を学ぶ修行の功果として、得道の浅深なる階級とも見るべく、又一面よりは人の身体を形成する皮肉骨髄の四部に例して、霊的人格を形成する精神上の四分類なり。又感覚と感情と知力と意志との受持を殊にする部分とも言うことを得べし。霊的譜脈を受くる我等は宗祖のそれを各部に共に習わざるべからず。身体を形成するには皮肉等の四部具備すべきが如く、精神においても四部に亘(わた)りて全備せんことを要す。若しそれ宗教が感情に入り、偏して意志の信仰に欠くる時は、恰(あたか)も肉は豊富なれども骨が不健全なる如く、何(いず)れにても一方にのみ偏するは病的なり。我が祖の信仰の完全なる如く、我らもまた完全たらんことを期せざるべからず。完全なる修養は知情意共に弥陀に同化せらる。これを総括する者は霊我にして、霊我の人格即ち霊格なり。もし肉体の方より検すれば、元来宗祖と普通の人類とは異なる所なし。身体を構造する要素においても、また構成の形式においても、解剖学上はた生理学上においても異点を見出さざるべし。然れども宗教的意識の全部においては全く大いに異なれり。この宗教的精神における我等は、宗祖の霊的実質を形成せし如くに習わざるべからず。実に宗祖の人格は完全且つ美麗にて間然する処あらざるなり。これ正しくその内容は弥陀の光明に依って成熟したる阿摩羅果なればなり。果物も已に成熟する暁には、外皮も麗しく肉も美味に、種子も熟する如く、宗祖の霊的人格の立派なることは一見自ずから威にうたるる如く、また温容欽慕に耐えざる如く、精神の中なる感情も弥陀に美化し、豊富にして微妙なる法喜禅悦の妙味を感じつつあるが如し。又意志の骨の剛毅なること金剛の如くにして、南都北嶺の大衆の迫害に泰然として動かざるが如き、実に弥陀に霊化せられたる、我が祖の人格の円満なる如きは、他に比例を見ざる所なり。かくの如き超人的霊格を形式せしめたる者は念仏三昧なり。これに依って円熟したる知情意は共に霊的なり。宗祖の霊的要素は弥陀の光明によりて霊化し給いしなり。されば弥陀を離れて宗祖の実質を形成せし要素は見出す能わず。宗祖は我らの為に霊的実質を形成する一大要素を見出さんとて、永年に亘りて腐心せられたりき。宗教は人の信仰と如来の光明とに依って成立す。衆生に本来仏性なければ宗教何の要もなし、人に仏性あり、煩悩に覆われて顕現すること能(あた)わず。たとい仏性は具すれども、卵中の鶏の如くこれを孵化するに非ざれば霊性も活動すること能わざるなり。人の信仰と如来の霊力とに依って霊性は顕(あらわ)るるなり。霊性を顕わして仏に成るのが仏教の目的なれば、宗祖の内容を洩らし給える道詠について今衆生の心田に仏種子を播下するものを選ばん。
二、選択の道詠
(1) 法と行とに就いて
阿弥陀仏(あみだぶ)と云ふより外(ほか)は津の国の、難波(なにわ)の事もあしかりぬべし
法 名号(最勝の法) イ 名体不離の故(ゆえ)
ロ 満徳総持の故
ハ 聖種子の故
行 念仏(最易の行) イ 弥陀本願の故
ロ 父子合意の故
ハ 親縁の故
ニ 王三昧の故
ホ 直弁の故
ヘ 万機普益の故
我が祖が開宗の標準は他宗の祖師と趣を異にす。伝教大師の台宗における、弘法大師の密教における、何(いず)れも入唐して有縁の宗師について伝法相承し、帰朝の後その宗を弘められしが、我が祖は選択的主義を以て開宗せられたり。宗祖の選択の目標とし給ひしは法と行とにあり、法は一切経中にて最勝最上を選び、行は一切行の中に至易至簡を選び給う。故に他師の開宗の年齢に比すれば最も晩年に開宗されたり。宗祖は疾(と)くに出離の志を発(おこ)し、衆多と共に平等一慈の下に得度せんとの念願にて、二十五年間一代の経及び一切の章疏に至るまで悉く研究し比較し、非常なる苦心の結果、漸く導師の観経の疏、一心専念乃至順彼仏願故の文に端緒を開き、念仏に過ぎたる行なきことを確かめて専修一行の宗を開き、後に選擇本願念仏集を述べてその意(こころ)を明かし給へり。
(い) 法の最勝なることを述ぶるに三義あり。即ち、
(イ) 名体不離の故… (ロ) 万徳総持の故… (ハ) 聖種子の故…
(イ)名体不離=談義に「至極大乗ノ意(こころ)ハ体(たい)ノ外ニ名ナク名ノ外ニ体ナシ」と、弥陀の萬徳悉く名号に摂在する故に、名号を称える時自然に万徳具わるなり。又名を称すれば如来の徳が自然と彰(あら)わる。二祖はこれを喩えを以って述べられたり。「譬えば人の名を呼べばその人を思い出す如く、弥陀の名を呼べば直ちに弥陀を思う」と。例せば太陽と云わば名について太陽を思うが如く、弥陀の名を号(よ)ぶ時、即ち弥陀を思う。さればとて口に名を称するも、意(こころ)が弥陀に相応せざれば体(たい)を離れたる名にして実(じつ)はなきなり。
(ロ) 万徳総持=選択集に「弥陀一仏ニ所有(あらゆる)四智三身十力乃至一切内証外用(ないしょうげゆう)ノ功徳悉ク名号の中ニ摂在ス」と委(くわ)しくは集の如し。他師の説なれども弘法大師は経を引いて、「阿字十方三世仏、弥字(みじ)一切諸菩薩、陀字八万諸聖教、皆是阿弥陀仏」と釈し、また源信僧都は、阿弥陀の三字を法報応の三身、空仮中の三観、法般解(ほっぱんげ)の三徳等に配せり。名号は万徳悉く総持するが故に最勝たり。
(ハ)聖種子=この事は後に説明す。
(ろ)行について念仏を選ぶに、今暫く念仏が余行より弥陀に親しき種々の義あることを挙げば六義あり。即ち、
(イ)弥陀本願の故… (ロ)父子合意の故… (ハ)親縁の故… (ニ)王三昧の故… (ホ)直弁(じきべん)の故… (ヘ)万機普益の故…
(イ) 弥陀本願の故=導師の一心専念乃至順彼仏願故の文、是れ宗祖が諸行の中に選んで念仏に帰し給ひし所以。
(ロ)父子合意の故=仏は是れ大慈父、我等はその子なり。父が子に対し、子が父に対し、一心に念仏すれば必ず父子合意契合(けいごう)して、直調(じきちょう)をうること念仏に過ぎたるはなし。
(ハ)親縁の故=導師の「衆生行を起こし、口に仏を称すれば仏これを聞き給ひ乃至意(こころ)に仏を念ずれば仏便(ほとけすなはち)これを知り給ひ、衆生仏を憶念すれば仏も衆生を憶念し給う、彼此(ひし)の三業相離れず故に親縁と名ずく」と。世間にも親子名を呼び交わすは最も親しみを親密にす。導師が「偏(ひとへ)に念仏の衆生を摂す」と云うは極めて親密の語なり。
(ニ)王三昧の故=「仏法に無量の三昧門あり。中について念仏三昧の王たる所以は、他の一切の三昧は唯一門のみを掌(つかさど)れども、念仏三昧は一切の三昧を摂して遺(のこ)すこと無し。三世諸仏悉く念仏三昧にて最正覚を成ぜり」と般舟讃に明かせり。
(ホ)直弁の故=往生要集に明かせり。「他の一切の行は往生の為にと回向せざれば往生の業とならず。念仏はもと往生の行の故に別に回向せずとも直ちに弁ずる故に」
(ヘ)万機普益の故=集に「念仏は一切の老少男女共に、行住坐臥時処諸縁を嫌はずして行ずることを得、最も修し易きが故に、万機を摂す」
ハ、名号は聖種子の故に(前頁ヨリ来ル)
問う、仏教にて仏種子と云うことは、仏性と共に本有(ほんぬ)なるか、将(は)た新薫(しんくん)なるか。法華等にも「仏種は縁より生ず」と説けり云何(いかが)。答う、唯識等に依れば種子に本有と新薫とあり。本有種子は仏性にて衆生法爾として具す。新薫は名言薫習即ち名言の種子が八識中に伏在して、自体果を生ずる能力なり。色心が万法を現象する生産の起元作用の力、例えば植物の種子に生産の起源作用ある如く、生物の元形質が種子の細胞に入りて種子と為り、一切の枝葉根茎等が嵌込式に伏在して縁を待ち、漸々に発展し顕現する如くに、聖種子の名号が衆生の仏性に薫じて、その元形質に一切万徳が嵌込式に伏蔵して、頓(やが)て円満に成熟するに及びては、諸仏の果位に至るの徳を具するなり。
仏種子とは元照云く、「問う四字の名号は凡下常に聞く、何の勝能ありてか衆善に超過せるや。答う仏身は相に非ず果徳は深高なり。嘉名を立てずば妙体を彰わすこと莫(な)し。十方三世の諸仏皆異名あり。況(いわ)んや我が弥陀は名を以って物を摂す。ここを以て耳に聞き口に誦すれば無辺の聖徳識心に攬入(らんにゅう)し、永く仏種と為り、頓(とみ)に億劫の重罪を除き無上菩提を獲得す」と、人の本有の性は無定性にて而も一切の種子を薫習する性能あり。若し基督(キリスト)と云う宗教的元形質が薫染すればクリスチャンと為る、若しマホメットの元形質が入ればマホメットが種子と為る。今は衆生の仏性に阿弥陀仏の聖元形質が播下(ばんか)して頓(やが)て仏子の面目を顕す。即ち宗祖はた教祖の如き霊格と為るのも種子にして、これ我が祖が仏教中に最勝最上の聖種子を選びたる所以なりとす。
(2)衆生の至誠心について
往生は世に易けれど皆人の、誠の心なくてこそせね
(イ)往き易き所以=至誠は本来弥陀と衆生との根本的の因縁に依って、自然に合致すべき性なり。弥陀は自性の本体を以って我とし、衆生もと自性を根底としながら、迷妄虚仮を我と思うて六道に流転す。真実を体とする父と、虚妄を我とする衆生とは、しばらく父子相背(あいそむ)くに似たれども、虚妄我の奥底に潜める本心は、如来の聖意と同性相吸引するの勢能(ちから)を有するを以て、実には本覚の父の許に往き易し。然るに衆生一たび本覚に背き、虚妄我に執(とら)われ、虚栄虚偽自ら非なるを覚知せざるを以て往く人少なし。大師が「念仏して往生するは法爾の理なり」との宣(のたま)いしも、弥陀と衆生との本心に本来合致すべき性を有すればなり。
(ロ)至誠と虚仮=すべて人には至誠と虚仮との二性を具有す。これを仏教にては仏性と煩悩と云い、儒教にては道心と人心と云い、キリスト教にては霊と肉との心と云う。俗に言う本心と形気の心なり。至誠は真実心にて衆生本有の仏性、俗に言う天より稟(う)けたる性なり。虚仮は煩悩、即ち人欲の私より生じたる迷妄なり。至誠は例えば純粋なる水の如し、虚仮は心水に混ずる有毒菌の如し。地中の深き底より湧き出ずる水は混淆物少なけれども、地殻に近き処の水は種々の汚物混じて、中には種々の黴菌を含有するやも知れず。人の天性は水の如く、人欲の私より虚偽を生ず。虚偽は肉欲我欲、動機より名誉利欲の念を生じ、その利害上種々の事情を生じて、恰も有毒菌の如し。この黴菌が心水の中に生活する時は、すべての罪悪苦悩及び禍害(さいがい)を起こす、これ一切の心の病の源(もと)なり。衆生天性の心水中には虚偽の有毒菌を発生す、これ煩悩なり。この中に種々の毒種あり、いわく忿恨覆脳嫉諂(ふんこんふくのうしつてん)等の類、これらの働きは即ち災禍(わざわい)に悩ましめ、世々流転の業を造る種子を醸(かも)す。人の心水を清めて純正澄浄なれば真実心なり。この真実を根底として仏の万徳一切の善根を充たしむれば成仏す。至誠より生ずる功徳にあらざれば終局の功果を望み難し。一の心が虚仮雑毒を基礎として煩悩より業を造り、業に依って苦を受け、竟(つい)に解脱の期あるべからず。至誠を根底として菩提心を起こす者は仏心なれば、仏子仏行の帰する処必ず無上正覚を成ずべし。
(ハ)弥陀は至誠を選取す=一切諸仏の智慧と慈悲とを集め給いし処の弥陀は悉く一切衆生を摂取して仏道を成就せしめんとす。為に選択摂取の法を以て本願となし給う。選択摂取とは何ぞや。曰く有(あら)ゆる一切国土の中の麁(そ)を捨て妙を選らび、衆生の中の悪を捨て善を取り給う。要を取って云えば、一切の無明迷妄虚偽邪悪苦渋害毒等の一切の悪をば悉く捨て、而うして真善微妙光明等の一切の善なることは悉く選び取り、至真至妙の浄仏国土を顕し、而うして暗黒の惑業苦の中に迷える衆生を摂取して、清浄光明の方面に転住せしめんとの目的なり。一切の悪業を捨て一切の善業を選び取る、之を選択(せんちゃく)と云う。かくして顕れたる勝世界を浄仏国土と為す。然るに選択より顕し給いし浄土には、いかにして往生するや。曰くこれまた選択の法に由らざるべからず。然らば何者をか捨て何者をか選取するや。曰く往生を楽(ねが)うに虚仮心は捨てられ真実心は選び取らるるなり。その選取されたる者が真善美の選択の浄土に生まれ、捨てられし人は捨てられし者の麁悪(そあく)の方にして、永く迷わざるべからざる訳なり。現在の心が已に真実心となれるところの人は、選ばれて弥陀心光中に在って歩々向上し、虚仮の人は肉の暗黒に惑いて焦って悪道に堕ち行くなり。
(ニ)至誠は内容を要す=至誠心は純粋なる天真なる心なり。之は純粋なる水に類すべきもの、清浄なれども至誠心の自性は形式なり。例えば純なる水の淡白は無色無味無臭なる如く、これに馥(かぐ)わしき香を放ちて咽喉を悦ばす甘露の味の如き飲料に為(せ)んには、それに調合する美味と香料とを要す。誠は最も鞏固(きょうこ)なる根底なり、この根底の上に建設したる建築物は傾倒の憂いあることなし。誠は形式にて必ず内容を要すべし。彼の如来の本願に「至心信楽欲生我国、乃至十念若不生者不取正覚」と。されば誠を充実せしむる内容は、弥陀の聖意(みごころ)に相応する信、愛、欲、これなり。曰く至心(まごころ)に如来を信じ、至心に如来を愛し、至心に浄土へ生まれんと欲するなり。誠の本体は如来の法身(ほっしん)にして衆生は法身の一分なり。奥底には大法身の連なれる法身なる誠の性を有す。信と愛と欲との内容を充実せしむるは、報身仏の智慧慈悲等の本願力なり。人は誠の性を具有すれども、天然素朴の間は未だ光を顕さず。誠、即ち真実心が全く顕現するは自性天真我として、如来の形式の上において一致する時なり。然れども内容を充実せざれば万徳円満なる仏と成ること能わず。それを充実せしむるは信、愛、欲の信仰と如来の本願力とに依るなり。
真実と虚仮とは、例えば果実の類における種子が全く熟して、生産作用を生ずるに至れば、誠の内容も充実し全く種子の資格を具う。人も仏の子として至誠の上に信楽欲生の心を以って念仏し業事成弁する時は果実の成熟したる如く、聖(きよ)きに生きる生産作用の功熟したるなり。ただ虚仮の皮殻(かわ)のみにて核なくんば種子の功を認むこと能わざるなり。
(ホ)至誠の三階=人の精神発達の程度を三階に分かって至誠開発の順序を明かさば、人の精神と云うも心に程度あり。迷いも悟りも善も悪も皆心より出づ。仏教の一心十界説の如く、地獄畜生と成るも人天となるも、また声門や菩薩となるも心を本とし、心の発達の程度より分かるるなり。骨相学等においては、頭脳を三位にして心の座所を説明す。その頭脳精神の三階説も全体を信ずること能わざるも、唯且(しばら)く便利上精神発達の程度の説明に転用せば、頭脳三階とは、一、天性、二、理性、三、霊性これなり。
眼と耳との位置より下部を天性とし、目と額(ひたい)の中位迄を理性とし、額より上部を霊性とす。天性は人と動物との共通性、理性は人類のみの特性、霊性は神人合一性なり。
(ヘ)天性的の至誠=これは天然生理的の心理作用を為す部分にて、眼を以て視、耳に聴き、鼻に嗅ぎ、舌に味わい、身に触れて感覚の作用を為すは、人類も他の動物も共通なり。寧ろ彼等動物の方が遥かに発達したる趣あり。或る獣類は闇きに視、また遠方の音響を聞き、殊に臭覚の敏捷なる如きは、迚(とて)も人の及ぶ処にあらず。又口の働きにおいても、口自ら料理し、また彼らの戦闘には牙歯の武器を天然に具有す。これより考うるも唯肉体と及び天性の五官の如きは、その発達の程度、到底人間の及ぶ所にあらず。
(ト)理性的の至誠=眼より額の中部迄を理性とせば、人間は他の動物より殊にこの部分の発達し居るを見る。人類が高等動物に比較して肉体機関の軟弱なるに拘わらず、他動物を制伏して最高の位置を占むる所以は、精神と理性とが特殊に発達し居るに依るなり。理性は自然界の一切の理を認識し弁別し考察し工夫し推理す。これを有するものは人間にのみの特長なり。彼の理化を応用して蒸気や電気を発明し、又これをすべての器械にも応用し得るに至りしは、悉く理性より発明されしに非ずや。又天文地理等の自然現象の事物を理解し、百科の学説を立てて万物の原理を思弁し、判断し観察して哲学等を弄(もてあそ)び、又一方には常識を以て我と人との社交を為し、道徳倫理を以て秩序を整え、または法律を以て人の義務や権利を正しくす、これみな理性ある人類にして初めて行はる。倫理と云うも人間が高等なる理性を以て自己の肉体の動物欲を制し、道として守らざるべからざる自己の行為として規定するが如き、人類には赫々たる理性の光を以て動物を制伏す。さりながら人間とても理性を悪用し濫(みだ)したる暁には、天性の人や動物よりも遥かに悪しき且つ恐ろしき働きを為すことあり。
誠は天命の性として人類に具有すれども、意識的に判然と外面へ顕われず。その性の作(な)す処も誠に契(かな)う事と契わざる事とあり。縦令(たとい)現に悪しき働きを為さずとも、因縁に随って悪しき方へ発達することを妨げず。すでに理性の働きの中には、虚仮と真実との両面に意識を働かし、理性自ら悪しき事を為せども、他人の前には隠蔽す。理性にこの仮詐欺の働きある所以。至誠(まごころ)の本体は霊性なり。たとえ具有すれども開発せざれば顕わすこと能わず。宗教の目的はこの霊性の開発にあり。いかに学問上仏教に明るく説明は巧みなるも、そは理性において教理を理解するに過ぎず。自然界の一切の事物を識り得らるるは、科学の範囲における理性の働きなり。仏教の目的の対象は心霊界の区域にあり。故に霊性を開く心眼なくんばこれを知見すること能わず。極楽は西方に在りと説けるも自然界の中にこれを発見すること能わず。実に心霊界は肉眼を以って見る範囲に非ざれども、心眼を開けば必ずしも見られざるに非ず。すべて仏陀(ほとけ)の実験の説より成れる大乗教の浄仏国土の如きは、霊界なれども心眼を以てすれば見得べきなり。何程(いかほど)理性の知識を研(みが)くとても霊性の実修なければ、如来諸説の仏身仏土を観見すること不可能なり。
若し理性の学識を以て霊界の真理を経験し得るならば、教祖釈尊は太子の当時有(あら)ゆる天下の学者を集めて、学問の上に真理を実験すべき方法を講ぜられしならんに、而(しか)も人間の知識も学問も技芸も財宝も、乃至一切を悉く棄捐(きえん)して山に入りて道を学すること六年、修行を終わり豁然(かつねん)大悟の暁は無上正覚を得て、霊界の全部を正しく実験なされし如きは、霊性開けて見れば宇宙全体、無量光明世界なることを知る。ここに至りて従来を省みれば無明の闇深く生死の夢を貪りつつありしを嘆ぜむ。自ずから目醒めて而うして後、世の中の迷いの夢に醒めざる人を見る時、実(げ)に哀れ不愍(ふびん)と嘆ぜざるを得ぬ。然らばこの夢中の人を覚醒せしむるには如何せん。寧(むし)ろ諸仏と共に常楽世界に安住するに如(し)かじと思われしも、一歩進んで観ずれば、一切衆生の生死迷夢の中にも霊性は失わず、これを開く時は諸仏と異なること無し。いざこれよりは一切衆生を度せん哉(かな)とそれより教化の途(みち)に出で給う。我が宗祖、夙(つと)に一切の聖経を学び、深く仏教の奥底を究めしも、これはこれ、唯学解の分斉(ぶんざい)にして、未だ証入の門にあらずと、永年苦心の結果、専修念仏の一行を選び、ここに権門の方便を出で、直入真実の行に入り給う。教祖及び宗祖、ともに理性においては出離の道を得ること能わざるを悟り、専ら霊性を開くの道に就き給えり。さればこそ霊に活きたる導師として、迷妄黒闇の灯明として衆生を霊界に誘導するを得給いしなり。
然るに動物の如きはこの理性において欠くる処あるを以て、善悪共に区別することを得ざるを以て、意識的の虚仮あることなければ法律上道徳上善悪の責任なし。唯理性ある人間にして虚実善悪の責任を負うものとす。
(チ)霊性的至誠=霊性は人類精神中最高部位の部に属す。如来の霊を感じ仏知見に依って啓示せらるるのはこの性なり。仏弟子及び菩薩仏等が最勝の霊たる所以は、この性能(ちから)の能く発達して働くが為なり。この性は無限の大霊に接触し霊界の清浄微妙を感受し、如来の相好色身を観じ、浄土の衆宝荘厳等を見る機関なり。教祖世尊が菩提樹下の金剛座上にて朗然(ろうねん)として大悟せられしは、この性が円満に開発あらせられしを云うのみ。キリストがヨルダン河の上にて聖霊を感じたるもこの性が開けたることを意味するものなり。
心霊界の太陽と仰ぐ無量光如来の光が、浄満月に反映したる釈尊の正覚は、この性においてす。教祖はこの霊光を以て一切の人類を導きて永遠の光明に入られしめ給えり。永劫の大霊光(おおみひかり)は常に照臨し給えども、霊性未だ開けざる人は、これに感触すること能わず。日光常に照らせども盲人は見るべからざるが如し。併(しか)し前に述べたる天性の人は、誠と云うも未定にて、理性の人は意識的の理が判るだけ真実(まこと)も為し、また虚仮をも為す。霊性の人は純誠にして虚仮なることなし。予は至誠の体を顕わす為にかく区別したるも、天性と理性との人は往生不可と云うにはあらず。たとへ殊に天性と雖も霊性伏在して至誠なきにあらず。天性の人と雖も信仰に入って光明に接せば霊性開くことを得、況(いわ)んや理性を開きし人においてをや。
至誠の体は霊性によりて顕る、この霊性の内容を充実せしめ、実質を形成せんには如来を信じ如来を愛し、浄(きよ)き霊国(みくに)に生ぜんと欲する、信と愛と欲とを以て、至誠の内容を充実せしむべし。