山崎弁栄 『宗祖の皮髄』 「序説 玄談」

山崎弁栄上人の『宗祖の皮髄』の序説の部分をタイピングしてみた。

今まで、ネット上には存在しなかったので、ネット上にタイピングして多くの人に読めるようにするのは、それなりに意味があるように思う。


本説の部分も、後日タイピングしてみたい。


この『宗祖の皮髄』は、弁栄上人が、法然上人の理解・念仏者の宗教的境地の深さには「皮・肉・骨・髄」の四つの段階があるとし、法然上人の宗教的境涯・霊的内容に触れるには、法然上人のあらゆる著作の中で「道詠」(和歌)が最も現れているとし、自らの卓越した宗教的体験や境地から、法然上人の道詠を説き明かして、念仏三昧による宗教的境地の深まりや体験について語っている、空前絶後の本である。


ただ、ちょっと明治時代の文章で現代人には読みづらい場合もあるとは思うので、後日、現代語訳にもトライしてみたいと思う。





山崎弁栄 『宗祖の皮髄』


「序説 玄談」


一、 本講演の大意


謹んで惟(おもん)みるに、我等何の幸いにか宗祖(法然上人)の如き霊的人格を備え給える大偉人の末裔として聖(きよ)き血脈を相承し、清き吉水の流を汲むことを得たる。我等は宗祖の聖き生命、霊的人格を欣慕して止まず。ついては宗祖の霊的人格の内容実質は云何(いか)ななる要素を以て形成なされしか。云何に安心を立て云何に起行して恁(かか)る霊的人格に倣い得らるるか、宗祖の後裔として血脈を伝承せる我等の日常は、宗祖に稟(う)けたる霊的生命として生活せざれば何の面目かあらん。宗祖の霊的内容の豊富なる如く我等は信念を養い、宗祖の霊的実質の克実する如く、我等は宗教心を克実せんことを期せざるべからず。


霊的人格とは、謂(いわ)ゆる如是相、如是性、如是体、如是力、如是作等、この何(いず)れの方面にも円満に具備せんことを要す。宗祖は内容が豊富にして且つ霊に充満すぐら故に慈悲円満なる相貌表われ、弥陀の聖意(みこころ)に霊化せられたる霊的性格備われり。全体に亘りて霊的人格の円満なる、間然する処なき霊格は即ち上一朝より下万民に至る迄に感動せしむる大威力あり。内霊に充実せる心意(こころ)より動く処、三業の所作として、悉く仏行ならざるはなし。蓋し宗祖は弥陀の聖意(みこころ)を以て意志(こころ)とし、如来の慈悲を以て内容とし、弥陀の本願を以て願望とし、弥陀の人格がそのまま現じたる宗祖なると共に、宗祖は弥陀の応現なり。されば時人が「形を見れば法然房、実を思えば阿弥陀如来の応現か」と称讃せしも宜(むべ)なる哉。


霊的人格を形成するについての形式と内容と実質とを説明せば、安心は心意(こころ)の形式を具えるものにて、起行は内容を克実せしむるもの也。宗教の安心と起行即ちち形式と実質とは、これを仏像を鋳造するに例えれば、安心を完全に備えるは鋳造の塑式(かた)にして、起行は内容を充実する材料の如く、安心の誤謬なるは仏像の相好備わらざる如く、安心にして誤謬なければ仏像の相好能(よ)く備わるが如し。内容を充実せしむる材料とは金銀銅鉄等の如し。頃者(このごろ)、我が宗祖の諸義を伝う布教者の説を窺うに、安心起行の説明について精を究め美を済(な)す如きは、実に歎ずるに余りあり。然りと雖も、自ら信じ人を教えて信ぜしむるに宗祖の内容実質に倣うて、実地に宗教的人格を養成するに忠実ならざる如きは、実に遺憾に耐えざる処(ところ)、弁栄が不敏、固(もと)より如上の問題を云為(うんい)するの資(ちから)に乏しと雖も、宗祖の流れを伝えし責任を負えば黙止するに忍びず。願わくば賢明なる我が同侶衆よ、共に範を宗祖に軌(と)り、宗教的人格の実質を形成せんことにつとめ、自ら成して他に頒(わか)ち、大悲普く衆に及ぼされんことを欲す。聊か卑見を演(の)べて諸賢の参考に供す。若し少分たりとも資料と為るあらば、寔(まこと)に幸甚の至りなり。これを本講演の大意とす。



二、題号の略解


本講を宗祖の皮髄と題したることは、我々が宗祖の血統を稟(う)けて霊的人格の実質を形成せんに、同じ安心を定め、同じ起行を運ぶも、各々その造形する処の程度得道の浅深なきを得ず。本講は安心の形式よりは功果の内容養成を目的とするを以て斯かる講題を簡(えら)べり。これ達磨大師がその門下に対して、得道の深浅を品評したるに例せるものなり。達磨大師一日遽(にわ)かにその徒に謂いて曰く「我れ西逝(さいご)の時至れり、汝ら宜しく各々所詣を言えよ」と、時に道副曰く「我が所見の如くは文字を執せず、亦(また)文字を離れずして而も道用を為す」と。大師曰く「汝我が皮を得たり」と。次に尼の総持の曰く「今我が所解の如くば、慶喜が阿閦仏国を見ると同じく一度見て更に再び見ず」と。大師曰く「汝は我が肉を得たり」と。次に道育曰く「四大本空五陰有に非ず、而も我が見る処一法の得べきなく、言語道断心行処滅」と。大師曰く「汝我が骨を得たり」と。慧可は唯前に趨(すす)み拝し已(おわ)りて位に居る。大師曰く「汝我が髄を得たり」と。これに倣うて見れば、我等宗祖に血脈(ちすじ)、稟(う)けて安心起行を同じうするも、或いは宗祖の皮に接するあり、或いは骨に髄に触るる者あらん。念仏三昧の起行の功果をして、その所詣の程度に随って宗祖に触れ、その分に応じて宗祖の人格に触れ、ここに初めて血統を受けたる資格を成就するなるべし。亦(また)起行にしていよいよ進む時は造詣する処、ますます深きに至らん。この程度が頓(やが)て最後の試金石ともなる往生の日に、九品の階級と為る所以ならん。故に我等は安心を重んずると共に功果の内容を豊富にし、実質の充実を奨励するものなり。依って講題を「宗祖の皮髄」と顕したる所以なり。



三、安心起行の形式


我が祖安心起行の要義を選択集に選述し給えり。然るに同集は諸々の経釈より往生の要文を集め、一々御意見を以て批判を下し給えども、この要文は自ら咀嚼して形成し給いしかども、安心起行の要領に至りては組織的に物し給わざりしを以て、宗祖に咫尺(しせき)せる門弟らは、各々自己の意見を加味し、心行の流儀を立てて自ら宗祖の正統と主張す。実に宗祖の如き大偉人の、完全円満なる宗教意識は、門人等がその全体を体得することは不可能なりしならん。故に自己の色眼鏡を以て見る時、就中(なかんずく)、聖光善慧幸西等、各自の所見を以て各々一流を立てしは、恰も基督(キリスト)の門人が自己の見たる範囲において、基督を会解して四の福音書と成りしが如し。宗祖の門下においても聖光上人は、宗祖が盛んに宗義を拡張し給える時代に咫尺(しせき)して、伝法せらるること首尾八カ年、正しく祖意を伝承してその命脈を稟(う)け、専ら専修の流儀を宣伝せられ、殊に安心起行の事については、努めて宗祖の流儀を重んぜられたり。その筆録所々に散在せり、中について最も簡にして要を尽くしたるは授手印なり。その大意は下の如し。


一ニハ行事、五種正行と正助二業
二ニハ念仏ノ行者必ズ三心ヲ具足スベキ事
三ニハ三心ヲ具足スルノ人必ズ五念門ヲ修スベキ事
四ニハ三心五念ノ法ヲ行ズル者必ズ四修ノ法ヲ具スベキ事
五ニハ三種行儀ノ事


釈シテ曰ク我ガ法然上人ノ言ワク善導ノ御釈ヲ拝見スルニ源空ガ目ニハ三心モ四修モ皆俱ニ南無阿弥陀仏ト見ユル也
我等は鎮西国師を通じて宗祖の正統を稟(う)くるを得べし。依って安心起行の形式は授手印を基礎とするものなり。



四、起行の用心と功果の内容


宗祖の法語には心行の様を示し給えども、起行の用心については深く沙汰し給わず。然れども自行の激烈なる、寒夜尚(なお)汗すと。故に宗祖は実修躬行、自業を以て行相を示し給えり。然して起行の用心については二祖に伝授し給いしを以て、二祖国師は宗祖を祖述して懇ろに起行の用心を示し給う。
宗要十八(宗典十巻四十八頁)般舟経自説往生の事。この大意を述ぶれば、欲生我国とは念仏三昧を以て阿弥陀仏国に生ずることをうべし、常に仏身相好具足し、光明徹照し、端正無比なるを想えとの文につきて、善導の深意此処にありと。念仏に名体と云うことあり、名とは南無阿弥陀仏、体とは三十二相の体、仏体を見んと欲せば仏名を聞いて仏名を行じ、体を念じて見るべきなり。例せば人の名を呼べば直ちにその人の形を見るが如し。故に七日別時念仏すれば、七日間仏名を呼び奉り、意(こころ)には仏体を見奉らんと思うなり、これ念名念体なり。今般舟三昧経の念仏の意(こころ)を善導が得給うは、念体は弥陀の本願に非ず、念名こそ弥陀の本願と思い取りて経の前後を見給うに、我を念ぜよとは我が名を念ぜよとの意を得給う。念名は本願なり阿弥陀経にも執持名号の文あり。今口称名号の念仏行者の所期は見仏三昧を以て所期とすべし。その故は、口称念仏の成就と不成就とは、三昧発得を以て現身念仏の成就と云う。成就とは見仏なり。これに依りて別時念仏と云うは、南無阿弥陀仏と云う、称名はこれ行なり、弥陀の本願也。仏の三十二相の姿を現し給うことは、行者の志念するの所期なり。行者現身に三昧発得して証を取らんが為に七日の別時念仏を始め、不浄を止め散乱をやめて清浄の心に住し、入定の方軌を以て心に思う所は余念なく見仏せんと也、口には余言なく南無阿弥陀仏を唱うれば見仏するなり。
宗要四十九(宗典十巻八十七頁)別時念仏の事。問う別時念仏とは如何なる機なるぞ。答う見仏三昧を期とするも、尋常にては遅く見る故に、疾く見奉らんが為に別時を用うるなり。疾く見仏するはこれ見仏三昧の頓機の為にこれを説く、尋常の機はこれ漸機なり。無想の時に見仏する。尋常の行者も念仏し居る程に無想と成りて仏見え給う也。有想の時は仏を見奉らず。経に九十余の勿(なか)れと云うはこれが為なり。水静かなる時は月浮かぶ、風吹けば心を起こして仏を見んと欲するも得ず。般若経にこれを妄念と記したり。
宗要五十八(宗典十巻九十六頁)念仏三昧発得の事。これこそ念仏者の大切なる事よ。これをよく習う可き事にて候。一切の行は所期を思いつめてこそ行ずれ、人ごとに何とも思わで念仏申すは悪しき也、念仏三昧発得せんこそ所期なれ。
宗要七十六(宗典十巻一一六頁)念仏行者の所期はこれ見仏三昧なり。故に見仏を本意と為る。故に所期に約して進んで三昧という。
二祖は斯く懇ろに起行の用心を奨励し給いしが、要はこの念仏を唐捐(なおざり)せずして内容実質を成就せしめんが為なり。起行の用心は因にて功果の内容は果なり。用心ありて実修すればその功果として見仏の益あり。已に見仏するに至れば自己の内容実質において変化し、心霊美化せられて実質が霊格と為り、霊活活溌の活きたる信仰となるなり。植物にても種子を播き下(おろ)して栽培宜しきを得ば、竟には麗しき花を開き好き果を結ぶ。即ち功果の実収あるが如し。信心の花開きて見仏の功果は霊的人格と現るるなり。



五、宗祖の法語と道詠


宗祖親しく道俗を勧めて念仏せしむるに、安心起行については御伝和語燈録等に繁(ことごと)く載せられたり。故に祖流を宣伝する伝道家が、安心起行の要文を掲げて、浄土の道しるべと為るは甚だ好し。然れども宗祖の霊的内容の弥陀に霊化したる処の、最も美に最も霊(きよ)き、大いに味わうべき、甚だ楽しき霊に活きて、温熱の血の循(めぐ)る処の、内容の方面を忘れらるるは実に憾(いたま)しき処、実に我が祖の世に最も尊崇し、愛慕せらるる円満なる人格は、還って内容の豊富なる処に存するにあらずやと思う。然らば我が祖が実行の功果として豊富なる内容より霊に満てる妙味を洩らし給え甘き汁をば、いかにせば霊に渇き聖に飢える輩にこれを享受せしむることを得るか。これぞ本講の目的とする我が祖の内容を汲みとりて、共に味わい共に活きんとする所たり。即ち我がその内容を洩らし給えるものは道詠なりと云うべし。いかにとなれば、いったい歌というものは自己の実感、自己の内容が自ずから詞(ことば)に表るるものなり。彼(か)の孔子が「詩三百一言覆之曰思無邪(詩三百一言これを覆う思い邪(よこしま)無し)」と詩や歌は理屈にあらずして感情の表辞なり。三百篇の詩が何(いず)れにも通じたる所はただ思無邪なり。邪(よこしま)なしとは自己の思うままが詞に出でたるにて、悲しいから悲しいと歌い恋しいから恋しいと歌が表わるるなり、即ち思いのまま実感のそのままにて邪なしと云う。今宗祖は寝ても起きても、心に仏を念じ口に名を称え、久しく弥陀の霊光に薫染し、仏陀に同化したる内容は、即ち弥陀と一体なり「阿弥陀仏に染むる心の色に出でば、秋の梢の類(たぐ)いならまし」と詠じ給いし如く、内感の余韻が即ち詞に出でたるに外ならず。故に我が祖の内容の消息を窺わんとするには、須らく道詠に洩らし給える跡を便りて、その室に入らざるべからず。
いかに万徳総摂の念仏にても、念仏が活きて働かざれば実際の味は感ぜられず。白隠禅師が云われし、生鉄(なまがね)を噛む如き隻手の音声なれども、かみしめて味が出で来たれば捨て難しと。況(いわ)んや五劫思惟の選み出したる念仏三昧の妙味を弥陀と共に味わうにおいてをや。詩歌は識るべきに非ずして味わうべき詞なり。この頃印度のタゴールが入朝して、名士の為に歓迎さるるのは、彼が欧州において、英仏独等の夥多(おおく)の哲学者等の上に特に称讃せらるる所以は、すべて在来の哲学者が宇宙の実体等を知識の対象として研究し説明したるに反し、彼は独り趣を異にして、自然と自分とを同じく血の通う朋として甘く味わう所にあり。故に説明するよりは寧ろ宇宙の妙味を歌うにあり。すべて実感の味わいは説くよりも歌うにあり。謂(おも)うに大乗仏教の経典は、仏陀が自己内感の霊味を讃頌(さんじゅ)したる物ならんと信ず。今宗祖の内容を窺うに道詠に依遵せざるべからずというは全くこの意味に外ならず。



六、浄土の道しるべと道中の実験


安心起行の法を能(よ)く意(こころ)得るは浄土へ行くの道案内記なり。本より道が不案内にて方角さえ分からぬ者が、目的の地に達せんとするは不可能なれば、特に浄土に通ずる道しるべの安心起行については、確かに会得せざるべからざるなり。然れどもその道に入りて、幾年を経るとも唯道しるべのみを聞き、未だ道に進み、歩々に向上し、念々に進趣せざれば何の詮やある。正に浄土の道に就くものは、その功果として道程(みちのり)の経験なかるべからず。喩えば京都より出発して東京に向かう道中において、已に大津に迄到る人は大津迄を経験し、名古屋に迄到達したる人は名古屋までを経験しつらん。心霊界における浄土の道中に就く人も、その心霊における功果の程度だけに何か経験なかるべからず。伝道家は衆(おお)くの信者を誘導して、浄土の途に就くところの案内者にあらずや。自ら道中の処々の絶景、古聖の旧跡等を標榜し説明し、自ら率いる信者をして、道中の労(つかれ)を忘れ、楽しき道に進ましむるの職責にあるにあらずや、死後の浄土のみを称讃しても、道中の慰藉(なぐさめ)なくんば同行者の道中は無味にして耐えざる処ならん。
視よ、人生の一大事たる宗教に比べれば、要なき一閑事たる茶道や花道すらもこれを習う者には、その技術の堂奥に達する階級として、初伝中伝又は奥伝等の、道中の名所旧跡に趣味を覚え、知らず知らずに進行するに非ずや。禅における千七百の公案も、修道者をして誘導するの手段に外ならず。我が祖流を伝うる宗匠は、何故に道の為に忠実に、衆を誘引するの手段を講ぜざるや。



七、宗祖の入信と爾後の証入


我が祖が夙(つと)に出離の道に志を発(おこ)し、平民的の福音に大なる必要あるを感じ、いかにせば容易く生死解脱の道を得つらんと腐心の結果、善導観経の疏の「一心専念弥陀名号は、彼の仏願に順ずる故に」と云う処において、弥陀の願意を悟り、我等が解脱はこの外に無しと、渡りに船を得たる心地して、従来の所業を悉く捨て、専修念仏の一行に帰せられたり。爾後は行住坐臥に唯口称の念仏を事とし、専ら弥陀の本願を仰がれ、永き功果は弥陀の光明に霊化し、霊的人格の高き、内容の豊饒なる、一休が法然如来(いきにょらい)と讃せられし如き、実(げ)に我が祖の皮肉骨髄一々皆霊ならざるはなし。これ実に宗祖の尊き所以にして入信の宗祖が弥陀の本願を発見し給える功は、実に歎ずるに余りあるも、その時は未だ弥陀の光明に依って人格が霊化せられず、内容も霊に充ちたるに非ず。若し弥陀の霊を除き去らば祖位何処(いずく)にかあらん。然るに我が祖の主義を拡張する伝道家は宗祖の入信当時の本願名号の真理を発見したる分斉においてのみ宗祖を世に宣伝し、内容実質のその味わいを衆に頒(わか)たざるは何ぞや。唯宗祖の皮膚のみを汲んで未だ髄に達せざるやに思う。願わくは我が祖意を主張する同侶の賢士よ、徹底したる信念を以て我が祖の真髄を自ら信じ、人にも教え、宗祖の証入し給いし御跡を慕い、宗祖と共に弥陀の妙味を感じ、皮肉より骨髄に迄通じて宗祖に習うことを志さば豈(あ)に快きにあらずや。


八、霊格の核と種の伝播


凡(およ)そ有(あら)ゆる生物界を通じて、細草にまれ大樹にまれ、また下は黴菌より上は人類に至る迄、種子無くして生ずる物は無からん。元形質が原因となって、大きな象とも成り小さな蚤ともなる。心霊の生命にも必ずや種子あり。種子あればまた核あり。然らば我等の宗祖の霊格を敬慕して小法然に為らんと欲せば、何らかこれ元形質なる。春日和気(はるようき)に催されて咲く花の雄蕊(ゆうずい)の花粉は、馥(かぐ)わしき香を放ちつつ花の中心なる雌蕊(しずい)の中に入る。雄性の精子が雌性の卵房に入ればそこに胎子となる。それが本となって竟には果実となる。精子を受けぬ花は俗にムダ花と称え、花計(ばか)りにて種子の功能なし。鶏の卵子においても雄性の元形質を受けざるものは雛子(ひよこ)にならざるなり。ただ卵子は形のみにして生命なし。かく卑近極まる喩えを以て、無上最高の霊性に比するは勿体なきも一切衆生悉有仏性として、皆仏になる核の半面は、本来具える処の所謂本有の種性なり。然れども新薫名言の種子を受けざれば活きたる霊胎とはなれざるなり。実を尅して云わば、念仏三昧の花の開く時に、聖霊(にょらい)は実感的に入精す。その霊妙不可思議の霊感が霊胎となるなり。吾人が如来の霊に触れて、聖(きよ)き自覚に聖(きよ)き妙味を覚ゆることは、彼の元形質が我が心の内に入りて、その種子より常に光明赫耀たる妙色の相好を感発するが如し。
例えばアマラ果が、花蕾の時には小さくて、外皮も青く味もなし。その時には種子の核も熟さざる故に、たとえこれを播下(まきおろ)すれども萌発(めばえ)せず。宗教心もそれと同じく、初めより信念の味は感得せられず。然るに花蕾の果実は確(しか)と枝に執(と)まって、風が吹けども雨が降れども離れず、寝ても寤(さ)めても彼は親木の養分を受け、いつの間にか実は大きくなり、外皮も麗しく、順次に美しき色と成りし頃には、既に種子の核も熱したるなり。恰も我が信念の種子も、一心不乱執持名号にて、寝ても寤(さ)めても仏を憶念して離れざれば、樹の果実が枝と離れざる如く、念々に仏に執(と)まって、親と子と持ちつ持たれつ、離さぬ離れぬ関係と成って、何日(いつ)となしに心霊が成熟し、そして宗祖の如くに、外貌も麗しく、人格も大きく、内感の妙味も現れて法悦の楽しみに充たされ、ここに仏子たる霊格の熟するを見るべし。果実も未だ熟せざる途中において落ちしものは障害の為に目的を失えり。然れども既に熟せし上において枝より離るるの土中に入りて種子より萌発して自分も第二の樹に成らんとする目的あり。我等も念仏三昧を以て慈悲の親の養分を受け、霊核の成熟するを業事成弁とも悉地を得たりとも名づけ、果実に喩うれば、実が熟して第二の親木と成るだけの性分を備えし処なり、即ち熟せし霊の、肉体を離れ捨てて、法性常楽の身になる視角を成じたるなり。我等は受けたる天資の大小に拘わらず、宗祖を標準として自己の人格を形成し、而してそれが自分のみならず、既に熟したる仏種子をも、世に広く播布せられんことを希(こいねが)う。中山みきの人格に結びたる天理教の草の実は、僅か三十年間に全国に蔓延せり。宗祖の霊格に結びたる弥陀教の大樹は、比較的繁殖が徐々たりし。我等は我が国民の心地に無量寿の種子を播布して、同じくは真善微妙の花を開き、永遠の光に栄える果実を結ばんことを欲するなり。今宗祖の内容を窺うべき道詠十首を選び、それについて霊的人格の内容実質を形成したる我が祖の種子を世に播布せんとす。


 道詠十首
一、あみだ佛(ぶ)と云ふより外(ほか)は津の国の、難波(なには)の事もあしかりぬべし
二、往生は世に易(やす)けれど皆人(みなひと)の、誠の心なくてこそせね
三、我は唯仏にいつかあふひ草、心のつまにかけぬ日ぞなき
四、かりそめの色のゆかりの恋にだに、あふには身をも惜しみやはする
五、あみだ仏と心は西にうつせみの、もぬけはてたる声ぞすずしき
六、あみだ仏と申すばかりをつとめにて、浄土の荘厳見るぞうれしき
七、あみだ仏に染(そむ)る心の色に出でば、秋の梢のたぐいならまし
八、月かげのいたらぬ里はなけれども、ながむる人の心にぞすむ
九、極楽へつとめてはやくいでたたば、身のおわりにはまいりつきなん
十、生まれてはまず思いいでん古里に、契(ちぎ)りし友のふかき誠を