源信 往生要集 を読んで

今日、源信和尚の『往生要集』を読み終わった。

中公から出ている『日本の名著』シリーズの中に入っている現代語訳で読みながら、原文を対照させて読んでいったのだけれど、本当に素晴らしかった。
原文も素晴らしいけれど、この現代語訳はとてもしっかりしていて良いと思う。

実は、高校の頃、この中公の『日本の名著』シリーズにはまったことがあって、江戸時代の儒学者や明治期の思想家のものは、かなりこれで読んだ。

ただ、気にはなりながら、手にとっては一応みたものの、とうとう読めずにいたのが、源信の『往生要集』。
やたら長い上に、引用ばかりで、しかもあの世のことばかりで、高校生の頃の私にとっては、あんまり興味が持てなかった。
ただ、何かしら、その真剣さに、ひっかかるものは感じていたけれど、当時はあの世のことなどほとんど迷信と思っていたし、この世をどう生きるかにのみ関心があった。

それから、大学の頃、京都に一人旅で旅行に行ったことがあって、その時に比叡山に行った。
横川にも立ち寄った。
その当時は、別に源信和尚に関心があったわけでもなく、たまたま観光としての興味から横川に行っただけだったのだけれど、バスでかなりぐねぐね曲がり道を行った先にある横川は、根本中堂などのメインの場所よりもずっと奥まった場所にあって、その時に深い霧が出ていたせいか、とても神秘的で深い霊性を湛えている地のような感じがした。
それで、横川や、そこにいた源信和尚に、少しだけ興味が出たのだけれど、かといって旅から帰ったあとも、きちんと調べることもなく、十年以上の月日があっという間に経った。

また、この七年ぐらい、浄土教に興味を持って、あれこれと本を読んできたのに、どういうわけか、源信和尚をきちんと読んでこなかった。
正信偈で、いっつも源信和尚のくだりも読んでいて、「大悲無倦常照我」の言葉はとっても好きな箇所なのに。

かつ、五、六年ぐらい前、結局ある文学賞の公募に応募してみたものの予選でボツになった小説で、源信の弟子の寂照が主要登場人物の小説を書いてたのに。

どういうわけか、源信について、きちんと本を読んでこなかった。

やっと、今日、しっかりと源信和尚の『往生要集』を読破することができた。

なぜなのかは、どうも自分でもよくわからないけれど、何かひとつの縁が成就するのには、結構時間がかかる場合があるということだろう。

大乗仏教のエッセンスとも言うべき、本当にすごい本だった。


「われらいまだかつて道を修せざるがゆえに、いたづらに無辺劫を歴たり。
いまもし勤修せずは、未来もまたしかるべし。
かくのごとく無量生死のなかには、人身を得ることはなはだ難し。
たとひ人身を得たれども、もろもろの根を具することまた難し。
たとひ諸根を具すれども、仏教に遇ふことまた難し。
たとひ仏教に遇ふとも、信心をなすことまた難し。」

「一世の勤修は、これ須臾のあひだなり。 なんぞ衆事を棄てて浄土を求めざらんや。願わくばもろもろの行者、ゆめ懈ることなかれ。」

「もし相好を観念するに堪へざることあらば、あるいは帰命の想により、あるいは引摂の想により、あるいは往生の想によりて、一心に称念すべし。行住坐臥、語黙作々に、つねにこの念をもつて胸のなかに在くこと、飢して食を念(おも)うがごとくし、渇して水を追うがごとくせよ。」


これらの言葉が、胸に響いた。

また、全篇を貫く、切々たる祈りの心とも言うべきものに、とても胸を打たれた。


「この念をなすべし、「願わくば、仏の光明、われを照らして、生死の業苦を滅したまへ」と。 」

「この念をなすべし、「いま弥陀如来は、はるかにわが身業を見そなはすらん」と。」


「十方世界のもろもろの有情、念々に安楽国に往生す。彼すでに丈夫なり。われもまたしかなり。みずから軽んじて退屈をなすべからず。」

「この念をなすべし、「われ、いますでに仏の尊号を聞くことを得たり。 願わくば、われまさに仏に作(な)りて十方の諸仏のごとくあるべし」と。」

「念ずべし、「願わくば仏、わが宿業をして清浄ならしめたまへ」と。」

「この念をなすべし、「弥陀如来はわが三業を照見したまうらん。 願わくば、世尊のごとく慧眼第一に浄なることを得ん」と。」

「この念をなすべし、「弥陀如来はつねにわが身を照らし、わが善根を護念し、わが機縁を観察したまう。 われもし機縁熟せば、時を失わずして接を被りなん」と。」

「念ずべし、「われいづれの時にか本有の性を顕すことを得ん」と。」

「この念をなすべし、「あるいは大千の猛火聚を過ぎ、あるいは億劫を経とも、法を求むべし。われすでに深三昧に値遇せり。いかんぞ退屈して勤修せざらん」と。」


これらの言葉にみなぎる、真剣さや敬虔さは、本当に稀有なものだと思う。


源信浄土教の特徴は、

「大菩提心と、三業を護ると、深く信じ、誠を至して、常に仏を念ずとは、願に随ひて決定して極楽に生ず。」

といった具合に、菩提心の契機と、身口意の三業をしっかり守っていくという点が、見方によっては法然上人や親鸞聖人に比べて自力的だとか不徹底だと言われるのかもしれないけれど、とても興味深い特徴だと思う。
私は、べつにこれは不徹底だとか過渡期の思想家ということではないと思う。
源信和尚が称名念仏を根本としていたことは、往生要集やその他の資料からも明白なこと。
そのうえで、菩提心や三業を護ることを説いているわけで、説き方の違いや重点の置き方の違いはあっても、基本的に法然親鸞と同じと思う。
そうであればこそ、親鸞聖人は七高僧源信和尚を挙げたのだろう。
現代人にとっては、源信和尚の説き方の方が、親鸞聖人を誤解して増悪無碍の勘違いをする人が多いことを考えれば、誤解を招かなくて良いのではないかと思う。


「つねに心が師となりて、心を師とせざるべし。」

という源信和尚の言葉も、本当に肝に刻むべき金言と思う。

ともかくも、すごい本が世の中にはあったものだ。

また繰り返し、人生の間で読んでいきたい。