雲井龍雄追悼の詩 山吉盛義 「祭文」

今日は雲井龍雄の命日なので、山吉盛義という人が書いた、雲井龍雄の追悼の詩「祭文」をタイピングしてみた。


この山吉という人は、米沢藩出身の人なので、雲井とは同郷のよしみがあったのだろう。
どういう人なのか、情報がないのでよくわからないが、ネットで検索してみると、漢詩文にすぐれた人だったようだし、台湾の地理についての本を書いていたようだし、高麗青磁のコレクションもしていたようだ。
おそらく、当時の知識人であり、比較的明治の世も平穏に生き抜いた人だったようだ。


雲井龍雄は、明治三年に死刑となった。
今では、高島真さんの研究により、全くの冤罪だったことが明らかになっている。
明治新政府薩長藩閥に独占されることを正々堂々と批判し、かつ、失業士族の救済のために努力していたことが、時の権力に憎まれて、無実の罪で内乱罪が適応されて死刑となった。


その後、長い間、連座を恐れて、故郷でも雲井の名はタブーとされていたそうだが、明治二十二年の大日本帝国憲法の発布に伴う大赦令により、内乱に関する罪がすべて法的に消滅したことが確認された。
死後、十八年も経っていたわけだが、その時になって、やっとかつての知人や同志が集まり、墓前で供養を行ったそうである。


以下の詩は、その時に山吉盛義が読んだそうだ。
訳しながら、とても雲井のことをよく現している、胸を打つ詩だと



雲井龍雄追悼の詩 山吉盛義 「祭文」


山頽雖騫    山は頽(くず)れ 騫(か)くるどいえども
精霊不湮    精霊は 湮(き)えず
河涸雖涓    河は涸(か)れ 涓(しずく)なるといえども
名声不淪    名と声は 淪(しず)まず
先生為人    先生の人となりや
才気絶倫    才気は絶倫
夙交時賢    夙(はやく)より 時の賢と交わり
志在済民    志は済民にあり
誓掃世塵    誓つて 世の塵を掃(はら)わんとす
斯志不伸    斯(こ)の志は伸びず
時命已屯    時命 已(すで)に屯(なや)む
鼎鑊在前    鼎鑊 前にあり
嗟傷哉天    嗟(ああ) 傷ましきかな 天よ
先生而然    先生にして然(しか)り
行之苟真    行い 苟(まこと)に真
其事可伝    その事 伝ふべし
魂升九昊    魂は 九昊(きゅうてん)に升(のぼ)り
魄帰重泉    魄は 重泉に帰す
桑海変遷    桑海は変遷するも
凛乎墓田    凛乎たり 墓田
維已丑年    維(これ) 已丑(きちゅう)の年
大赦令宣    大赦の令 宣せらる
月始成円    月 始めて 円(まどか)と成り
花始回春    花 始めて 春にめぐる
同志百千    同志 百千
茲撰吉辰    茲(ここ)に吉辰を撰(えら)び
敬具逗筵    敬(つつし)んで 逗筵(とうえん)を具へ
欣供蘋蘩    欣(よろこ)びて 蘋蘩(ひんぱん)を供す
霊也有神    霊や 神あらば
庶幾饗旃    庶幾(ねがわく)は 旃(これ)を饗(う)けよ



(大意)


山は崩れ去ろうとも、
人の精神は決して消え去りはしない。


川は枯れてしまい、ほとんど水がなくなってしまったとしても、
人の本当の名声や響きは消えてなくなったりはしない。


雲井龍雄先生の人となりは、
才能も勇気も抜きんでていた。


早くから、その時代のすぐれた人々と交友を結び、
その志は、貧しく苦しんでいる人々を救うことあった。


世の中の汚れを清めることを決意していたが、
その志は十分に達せられることがなかった。


時勢と運命は過酷なもので、
死刑に処されてしまった。


ああ、なんという悲しいことか、天よ。
雲井先生が、このような悲劇に遭わなければならなかったとは。


雲井先生の行いや生き方は、本当にまっすぐな、真実なものだった。
そのことは、後世に必ず伝えなければならない。


雲井先生の魂は天の上にいまは昇り、
魄は黄泉の国に帰った。


世の中は移り変わってしまったが、
その墓前にたたずむと、いまも雲井先生の凛とした心を感じる。


今年、明治二十二年、
憲法発布による大赦令が出されて、雲井先生に対する内乱罪も完全に法的に消滅した。


月は、やっとはじめて丸くなり、
花は、やっと春になって咲いたような気がする。


ここに、同志、千数百人、
良き日を選んで集まり、供養のための祭壇をつくり、ささやかな食べ物をお供えした。


雲井先生の霊や、ここにおられるならば、
どうかこの供養を受け給え。