雲井龍雄 「源頼政論」(源三位与兵論)

雲井龍雄の「源頼政論」(源三位与兵論)をタイピングしてみた。
これは、おそらく、非常に早い時期に、たぶん雲井が十代の頃に書いた文章ではないかと思われる。


しかし、のちの雲井の生き方をそのまんま予見するようなテーマであり、内容でもある。


源頼政は、周知のとおり、以仁王を擁して、平家打倒の兵を誰よりも早く挙げて、敗れて死んだ人物である。
しかし、源頼政以仁王の挙兵に刺激されて、源頼朝木曽義仲源義経らが続々と挙兵し、ついに平家打倒を成し遂げた。

この、先駆者としての源頼政を称揚し、頼朝よりもある意味まさるとまで言っているところが興味深い。




雲井龍雄 「源頼政論」(源三位与兵論)



凡(およ)そ兵の帰するや二なり。
曰く勝、曰く敗。
然り而(しこ)うしてその本づく所以の者を原(たず)ぬるに、三有り。
義なり、名なり、策なり。
その分かるる所以の者を推せば、四あり。
義有り、名有り、策有る者有り。
義無く、名無く、策無き者有り。
義無く、名無く、策有る者有り。
義有り、名有り、策無き者有り。
それ名なる者は一なり、然るにその由って来たる所を究めれば則ち二なり。
義に基づくの名有り。
策に本づくの名有り。
苟(いやしく)も策無きや、兵、義に本づくといえども、然れども天下或いは得てその名を知ること無し。
苟(いやしく)も策有るや、兵、義に本づかずといえども、然れども何ぞ能わざるを患えん。
名を飾りて以てその邪を済(な)す、故に古えの姦雄は必ず先づ策を務む、名これに次ぎ、義これに次ぐ。
もしそれ、存亡を義と一にする者は、則ち肯(あえ)て名と策とを屑(いさぎよ)しとせざるなり。


それ義有り、名有り、策有る者は、以て撥乱反正するに足る。
源右府の兵はこれなり。
義無く、名無く、策無き者は一敗必ず地に塗(まみ)る。
光秀の兵はこれなり。
義無く、名無く、策有る者は、以て一世を籠罩すべし。
尊氏の兵はこれなり。
義有り、名有り、策無き者は、或いは今は屈しても必ず後に伸ぶ。
源三位はこれなり。
予、国史を読み、三位の兵事を興すに至りて、未だ嘗(かつ)て悵然として巻を掩(おお)い、古えを懐(おも)い、以て今を慨せずんばあらざるなり。
それ清盛の専恣残虐、安徳の初政に至りて極まり、内外を総攬し、廃立存亡、生殺与奪、一に愛憎の私に決せざるはなし。
三位の才を以てして、豈(あ)に能(よ)くその間の身を保つ所以を知らざらんや。
然(しこ)うして奮然、身を挺して、その志必ずこれを誅せんことを期す。
而(しこう)して肯(あえ)て成敗利鈍を顧みざる者は何ぞや。
その意(こころ)は蓋し謂(おもえ)らく、
「天下の平氏に苦しむこと久し。
今や世は、天定まり、人に勝つの秋(とき)なり。
八洲の大、豈(あ)に必ずや英雄無からんや。
然りといえども、英雄の起こるや必ずや為すべきの機に投ず。
故に人、或いは先ずこれが唱を為し、以てその投ずべきの機を発するにあらざれば、則ち将に或いは遷延して決さず、以て時を待たんとす。
蓋し、為すべきの機に投ずるは易く、投ずべきの機を発するは難(かた)し。
我れ、将に奮って難(かた)しとする所を為さんとす」と。
嗚呼(ああ)、これ則ち、存亡を義と一にする者のみ。
世の首鼠を成敗の間に較比し、その義にして取る能(あた)わず、取りて復(ま)たこれを捨つる者は、則ちその蒜臭(さんしゅう)如何ぞや。
宜(むべ)なるかな、その能く天下を感ぜしむるや、是(ここ)を以て三位の肉、未だ冷ゆるに及ばずして、義兵四方に起る。
その三位の遺志を継ぐ者は、終に同姓の右府に出づ。
而(しこう)して、右府の偉績を肇(はじ)むる者は、皆三位の遺澤に成る。
嗚呼(ああ)、右府の武略有りといえども、然(しか)も三位先ずこれが唱を為すにあらざれば、則ち豈(あ)に能(よ)くその大業を成すを保せんや。
然(しか)らば則(すなわ)ち三位の功、これを右府に過ぐると謂(い)うも亦(また)可なり。
或いは曰く、三位の忠肝義膽を以て、而(しか)も清盛を一死お前に斃(たお)すこと能(あた)わず、僅かに能く右府を一死の後に興す者なり、と。
曰く、嗚呼(ああ)、是(こ)の所以は、義有り、名有り、而(しこう)して策無きことか。




(大意)


総じて、戦における帰結は二つしかありません。
つまり、勝利と敗北です。


そして、それぞれの理由を尋ねるならば、三つのことがあります。
義(本当に正しいこと)と、
名(スローガンや名分)と、
策(権謀術数や政治的力量)です。


この三つの組み合わせによって、四つのものに分けることができます。
義と名と策の三つともが備わっているもの。
義も名も策も三つとも無いもの。
義と名は無いが、策はあるもの。
義と名はあるが、策はないもの。
この四つです。


名(スローガンや名分)と一口に呼びれますが、その根拠をよく考究するならば、二種類ものがあります。
つまり、義を根拠としている名と、策にもとづいている名です。


もしも策が無いのであれば、仮にその挙兵や闘いが義を根拠にしているとしても、場合によっては、世の中にはその名を知る人もいないようになってしまう場合もあります。


もしも策があるならば、仮にその挙兵や闘いが義を根拠としていなくても、何もできないことはありません。
名を粉飾して、邪(よこしま)なことを成し遂げることができます。

ですので、昔から奸智にたけた英雄は、必ずまずは策を大事にして努力します。
その次に名を大事にし、そのまた次に義を大事にします。

ですが、もしも、自分の生死を義と一つにして生きていきたいと思う者がいれば、その人は、あえて名と策に努力することを潔しとせず、義をこそ第一に大事にし努めます。




義と名と策の三つともが備わっている者は、ひとたび立ち上がれば、世の中を正し、治めることができます。
源頼朝の挙兵がこれでした。


義も名も策も三つとも無い者は、必ず一敗地にまみれることになります。
明智光秀の挙兵がそうでした。


義と名は無いが、策はある者は、ひとつの時代を自分の思い通りにすることはできます。
足利尊氏の挙兵はこれでした。


義と名はあるが、策はない者は、場合によっては今は屈服させられますが、必ず後には志を遂げることができます。
源頼政がこれでした。


私は、日本の歴史を読んでいて、源頼政の挙兵の顛末に至ると、いつも、深い悲しみや嘆きを感じて、その思いが読書の途中で満ち溢れてしまい、昔の時代を思い、今の世を憤慨せざるを得ませんでした。


平清盛専制政治の残虐は、安徳天皇の御代のはじめごろに頂点に達しました。
内政も外交もすべて支配し、物事を廃止したり立ち上げたり、人を殺したり生かしたりする決定は、すべて清盛の私的な愛情や憎悪の気持ちによって決定されるようになりました。


源頼政の頭脳があれば、その期間、保身するための方法を知らなかったということはなかったことでしょう。
しかるに、奮起して、己の身を投げ出して率先して立ち上がり、必ず平家の政権を打倒することを志しました。
彼が、あえて勝敗や打算を顧みなかったのは何故だったのでしょうか。
その心中を思うに、おそらくは、


「世の中が平家の専制政治に苦しむようになってからすでに長い年月が経つ。
今や、天の定める法に則り、悪が滅び、正義が勝つべき時だろう。
この日本に、きっと英雄はいるに違いない。
しかし、そうではあっても、英雄が立ち上がる時は、必ずしかるべき機会にそうするだろう。
なので、誰かが、まずは先鞭を切って、先導者となって、英雄が立ち上がるだけの機会を整えておかないと、時代の変革は先延ばしになり、まだ時を英雄も人々を待つ状態が続くかもしれない。
そもそも、何らかの良いチャンスに立ち上がり身を投じることは簡単なことで、そうした人々が身を投じることができる良いチャンスを最初につくることこそが難しい。
私は、奮起して、この難しいことをこそ為そう。」


という心だったのでしょう。


ああ、この源頼政こそ、生死を義と一つにして生きていく生き方の人でした。
世の中に多くいる、どちらの側に就くかを成功か失敗かの間の比較から決めて、義を選択することができず、いったん選択したことを撤回して捨てたりする人は、その生き方の見苦しさはどうでしょうか。
とても比較にはなりません。
源の頼政が世の中を深く感動させ、影響を与えたのは、納得がいくことです。
そうであればこそ、源頼政が死んで、まだその骸が冷えずに温かさがのこっているほどに、ほとんど時の経たぬうちに、義のために挙兵する人々があちこちに現れました。


源頼政の遺志を継ぐ者として、ついに同じ苗字の源頼朝が現れました。
源頼朝の偉大な業績の先駆者は源頼政であり、すべてのことは源頼政の死によって始められ、もたらされた恵みとも言えます。


ああ、源頼朝のすぐれた知略や武力があったとしても、源頼政がまず先駆者となって先導をしていなければ、どうしてあれほどの偉大な事業を成就し保つことができたでしょうか。


そうであれば、源頼政の功績は、源頼朝よりも優っていると言うことも可能です。


ある人は言うかもしれません。
源頼政の忠義の心をもってしても、その死によって平清盛を倒すことはできなかった。
ただ、源頼朝を、その死の後に立ちあがらせることができただけだ。」と。


ああ、これこそが、「義と名はあっても、策がない人(は、その時は敗れても、後に必ずその志が実現する)」と言われる理由である。