現代語私訳『福翁百話』 第九十章 「偏執狂ということについて」

現代語私訳『福翁百話』 第九十章 「偏執狂ということについて」


ひとつのことに異常に執着すること、つまり偏執狂のことを、英語ではモノマニア(monomania)と言います。
マノマニアの人は、普通の人と精神は全く異なったところはなく、物事の大小や軽重をちゃんとわかっており、利害や名誉は恥辱がどこにあるかも理解しており、ものごとの道理の範囲の中に生きているのですが、ただある一つの種類の事柄に関しては目も見えず耳も聞こえないような様子で、普通の人にとっては簡単に見ることも聞くこともできることを見ずに聞かずに、全く道理から逸脱してしまう病気です。


西洋人の学説には、一般的に偏執狂を七種類に分けています。
第一は、疑いにおける偏執狂。他人の言葉や行動を聞いたり見たりしても、ともかく信用することができず、親友の言葉であっても偽りがあるだろうと疑い、家族が料理した食べ物にも毒があるだろうと疑うなど、普通の人が想像できないほど疑い深い偏執狂です。
第二は、迷信についての偏執狂。運勢の吉や凶、災いや幸運、人相、家の相、方角などのことに心を悩ましたり、神や精霊と会ったり、幽霊を見たりするような空想の話を信じて疑わない偏執狂であり、この種の偏執狂の人は苦痛を苦痛としない特徴を持っている人も多いとのことです。
第三は、外見を重んじる偏執狂。俗に言うところの見栄っ張りであり、その裏側の内実はとっくに他人に見透かされておりわかり切っているのに、とかく上辺や外見を取り繕って、自分では少しもおかしいと思っていない偏執狂です。
第四は、恐怖の偏執狂。臆病のひどいものです。たとえば、夜中にちょっとした物音を聞いたり、物影を見るだけで、驚き恐れるような偏執狂です。
第五は、傲慢で野心が強い偏執狂。自分にはさほどの智慧も知識もなく技術や能力もないのに、むやみに大きな言葉を吐いて、無一文の若者が一億円を稼ぐ方法があると言ったり、自分は天下をうまく処理して国民の利益や国益をはかるだとか絶叫し、自分だけで得意となっている偏執狂です。
第六は、盗みの偏執狂。なんの不自由もない身でありながら、人が持っているものを見ればお金であろうと品物であろうと盗みたくなる心を自分で抑えることができない偏執狂です。
第七は、飲酒の偏執狂。いつも酒を飲んでいることが癖となり、酒の毒が自分の体には害があると知っていながら、どうしても自分では飲酒を抑えることができない偏執狂です。


以上の七種類の偏執狂は、西洋人が列挙しているものです。
日本においてももちろん珍しくはないことです。
しかし、私が観察するところ、さらに偏執狂に属する他のものがあるようです。
潔癖で頻繁に手を洗っている人や、やたら縁起を担ぐ人が数字の四を嫌っているようなものは、まぎれもなく偏執狂です。
さらに一歩を進めれば、強欲な御婆さんが必死に欲を張って見栄も外聞もなく、わずかなお金のために人をののしったり怒鳴るようなことは偏執狂の小さなものであり、偏執狂の大きなものとしては大金持ちのお年寄りが巨万の富を持って暮しながらなお満足することを知らず、普通のことでは智恵も分別もそれなりに働いているのに、お金ということになると、たちまち視野が真っ暗となり義理も人情も忘れて破廉恥で慈悲もなくただ貪欲だけになって、そして貪欲で得たお金を何の役に立たせるのかと問われるならばろくに答える言葉もなく、ただお金が好物だいうような様子は、いわば守銭奴の偏執狂です。
あるいは、政治家が成功して名前をあげて地位から退くことを忘れたり、あるいは他人の尻尾についてしたがってわずかばかりの政治上の地位を保ち、すべて不如意であるにもかかわらず、執着して地位を去ることを知らないことがあります。
その内実を観察するならば、必ずしも利益のためではなく、ただ政治をこの上ない名誉と思い、政治を崇拝することが守銭奴がお金を吸這いするような者であるわけです。
また、あるいは、ただの学生や田舎の人物が、何の目的も工夫もなく、ただ政治と聴いて騒ぎまわり、ついには身を滅ぼし家の財産を失い、それでもなお目が覚めないようなものなども、どれもこれも政治への熱狂という偏執狂と言えることでしょう。


その他、趣味人が書や絵画や骨董に心を奪われたり、囲碁や将棋や音楽などに耽溺したり、学者が読書や思索に不養生を犯して病気になり、宗教家が自分の宗派を信じて他の宗派を誹謗するなど、すべてこうした類のおかしな行為を数え上げれば枚挙にいとまがないものです。
すべてこれらは偏執狂の名で呼んでも差し支えないようです。
結局、偏執狂とはものごとの何かひとつに偏って通常の普通の道理の外に逸脱する病気であり、医者が診察しても明白に識別できないとしても、精神の働きが平均ではない存在ですから、人間が生きていくうえで家庭生活にしろ社会生活にしろ、偏執狂とまでは至らなくても、何かひとつの物事に凝り固まるのはとても良くないことです。
時々、すべての思いを離れ去って、心のバランスをとる修行が人には非常に大切なことです。