現代語私訳『福翁百話』 第八十九章 「古いものの実際の姿」

現代語私訳『福翁百話』 第八十九章 「古いものの実際の姿」


古い物や古い陶磁器、古い書や古い絵画、骨董品などなど、これらを宝として大事にするのはとても良いことです。
歳月が経つのとともに、だんだんとそうした品々は消滅し散逸して減っていってしまう一方なのですから、のちの時代の子孫たちである私たちの義務として、長く保存の方法を工夫し、個人としても趣味としてそうした古い物を集めたり楽しんで、昔のものをなつかしみ美しいをものを愛する心を養うのも、文明の人がなすべきことです。
とがめるべきことではありません。
それだけでなく、単なる肉体的な欲望以上の高尚な精神的な事柄としてみなすべきものです。
しかし、懐古趣味や古い物を崇拝する感情に支配されて、ついには事実が何なのかを忘れて、無意味に古い時代を良いものとみなし、のちの時代を軽んじるようになるのであれば、私は納得できません。


左甚五郎の彫刻は絶妙なもので、のちの時代の人が及ばないと言いますが、実際は明治の時代に第二の甚五郎がいることでしょう。
弘法大師の書や狩野元信の絵画は、美しいことはもちろん美しく、すばらしいことはもちろんすばらしいものですが、今の時代に同様に美しく素晴らしい人物がいないわけではありません。
あるいは人は、のちの時代の書道家や画家が模倣しようと思ってもできないのは古い時代の書や絵画は非常に巧みで素晴らしいからだと言うかもしれません。
しかし、決してそうではありません。
人間の趣きや風情のある味わいは、時代によって移り変わるものであり、百年の時を隔てていれば百年の差があり、千年が過ぎ去っていれば千年の違いがあり、中国の晋の時代の王羲之と宋の時代の蘇軾とは、ただその書の作風に違いがあるだけのことであり、どちらが巧いか下手かは必ずしも判断できません。
ましてや、今の時代において必ずしも判断できないことは言うまでもありません。
この世界の書道家がどのように勉強して努力しても王羲之には及ぶことはできません。
なぜ及ぶことができないかというと、古い時代の人が上手だったということではなく、その時代の趣きや風情の違いです。
簡単に言えば、流儀が違うからです。
もし逆になって、王羲之に日本の書道でスタンダードな御家流の書を書いてくれるように望んだり、蘇軾に傘提灯に書く江戸文字を書かせようとしても、そのリクエストにこたえることができないことは明白です。
もしそうさせるならば非常に下手なことでしょうが、王羲之や蘇軾が必ずしも下手なのではなく、千年の昔と今とでは流儀が違っておりどうしようもないのです。


あるいは、古代の建築や工事は広大なもので巧みであると主張する人がいますが、これもまた取るに足りない話です。
大阪城が見事であることは間違いないとしても、今の時代においてもこうした種類の城が必要だと思われてお金さえ投じるならば、工事が非常に難しいというわけではありません。
木曽川の鉄橋をはじめとして、さまざまな鉄道のトンネルなどを見れば、大阪城のようなものは入札の際の納期の予定を遅れるおくれることなく、完成させることができることでしょう。
奈良の大仏や、法隆寺の建築、芝の増上寺や上野の寛永寺日光東照宮などができるかできないかは、ただ資金の問題だけです。
資金に不自由がなければ、今の時代の技術者の手によって同じようなものをつくるだけでなく、さらに広大に精巧にさせることすらもできることでしょう。


以上述べたことがはたして正しいならば、今の人の技術や力量は昔の時代の人に劣っていないだけでなく、さらに一歩を進めてのちの時代の限りない改良によってかえって古い時代をはるかにしのいで、その上に登っているという事実は万が一にも間違いないことです。
数多く説明することはしばらく置いておきましょう。
世の中の人は、古い陶磁器や彫刻、書や絵画、骨董品の偽物を見て、どのような感想を持つことでしょうか。
一般的に、他人の作品を真似するには、その本人を思わせる腕前がなくてはならず、ましてや一人で何人もの古い時代の人の作品を自由に偽造できるのであれば、その多芸多才ぶりは推して計ることできるだけでなく、その実際につくった偽物を見るならば、書や絵画あるいは骨董などいかにも本物に肉薄してどちらが本物か偽物か判別するのが難しく、世界で屈指の鑑定家毎回間違えさせられて顔を赤くする人が多いと言われます。
古い時代の人はただ自分のオリジナルの作品をつくるという一つの技術・才能のみ。
今の人は、二、三の技術や才能に熟達しており、その技巧は古い時代の人よりもすぐれている人がいます。
のちの時代が進歩しているということでなくていったい何でしょうか。
ただ、そのやっていることが不正であるために世の中に排斥されているというわけです。
ですが、もしもこの贋作をつくる人が自分でみずから権威となって、公然と自分の名前を現すならば、今の世界にも何人もの弘法大師、狩野元信がおり、王羲之も蘇軾もおり、彫刻には左甚五郎、刀剣には五郎入道正宗がおり、円山応挙頼山陽のような人物ならば大勢いることでしょう。


ただ、凡庸で通俗的な社会は、古い時代を崇めるという夢から覚めておらず、古い時代の人の名前を使わなければお金を稼ぐことができないために、あたらすばらしい腕を持ちながら自分を曲げて贋作をつくって昔の人の名前を盗用しているわけです。
偽造の是非は別問題として、私はのちの時代の技術の進歩には感心しています。
ですので、古い時代を崇拝する人々が熱心に古い物を大事にするのは良いとしても、古い物を大事にするのは地域のお年寄りを大切にするのと同じと心得るべきです。
お年寄りはだんだんとお亡くなりになって世の中にそんなに多くはいないために、尊敬し大切にしている気持ちを表しているわけで、その智恵や道徳が実際にどうかを問題にはしていません。
古い物もそのようなものです。
作品の美しさを評価するのではなくて、その数が少ないのを惜しんでいるだけです。
仮に、この範囲を逸脱して、古い時代を崇拝することに熱中し過ぎるのであれば、偏っていると言われることは免れられないものでしょう。