現代語私訳『福翁百話』 第三十九章 「人生における遺伝の影響を観察すべきです」

現代語私訳『福翁百話』 第三十九章 「人生における遺伝の影響を観察すべきです」



子どもに対して教育をするには、まず第一に、子どもの体質や健康状態を観察して、はたして学業を十分に行うことができるか見定めた後に、はじめて学問を始めさせるべきです。


この子はどうもひ弱でとても体を動かすことは向いていないので静かに読書でもさせておこう、などという考えは大きな誤りです。


弱い子であればこそ、体を動かすことに慣れさせて、その体力や身体をしっかりつくりあげることこそ正しい順序でしょう。


体力や身体に無頓着で、学問にその心を疲労させるのは、子どもを殺してしまうことと同じです。
恐ろしいことです。


また、人には遺伝という性質もあり、無理に学問を強制しても、上達しない人も多いものです。


相撲の力士を見ても、番付の幕の内に入り、あるいは大関や小結になるには、その人の持って生まれた天性の才能、つまり祖先から受け継いだ遺伝に大きな要素が存在しており、ただ稽古だけの成果というわけではありません。


痩せこけた小男が、どれほど努力したとしても、幕の内まで出世することは難しいことは、誰もが間違いなく思うことです。


ですので、人間の精神の能力は、体力や身体のように目には見えないとしても、その持って生まれた天性の才能に違いがあるのは相撲の力士の強さに違いがあるようなものです。


議論の余地のない事実ですので、学問において理解の鈍い子どもだと観察した上は、ただ一通りのことを教えて、あんまり多くを求めすぎないことです。
なんであろうと、本人が好むことを自由にさせて、だんだんとその方向を定めていくべきです。


体格のか細い男性に相撲の稽古をさせてもそもそも無益なだけです。
人間は必ずしも学者となるべきだという約束があるわけではありません。
学問もまた一種の道ですので、読書や推理の才能に乏しく、学問の道の奥義に達しないからといって、それほ憂いる必要はありません。


ただ、一通りの勉強や科学を聞いて見て学習して、いわゆる常識(コモンセンス)を備えて、日常生活の心がけが迂闊になっていないならば、世の中を渡ることは簡単なことです。


一字も文字をしらない人でも、立派に成功している人さえいないわけではありません。


いずれにせよ、学問への理解の才能が鋭い人と鈍い人とは、持って生まれた天性の才能にあることなので、子どもの性質を観察もせずに学問を強制することは父親や母親の心得違いと言うべきです。


世の中において教育家と自称している人々は、ややもすると、自分の信じていることに偏って教育を重視することが度を超えていて、ひたすら勉強勉強と唱えて、勉強さえすれば愚かな人も智恵ある人になるように囃し立てる人が多いものです。
しかし、実際に本当に現実を言えば、教育の効果や力はただ持って生まれた天性の才能の開花を助けて良い方向に導き、その到達できるところまで到達させるということにあるだけです。


このことは、たとえていうならば、植木屋が庭の樹木の手入れをして、その枝ぶりを良くし、その花を美しく咲かせたいと思うことと同じです。


どのように巧みな植木屋でも、松を梅に変えることはできないことはもちろん、同じ種類の樹木であっても、もともと存在していない枝をつくったり花をつけることはできないことです。


しかし、その樹木を生えるままに捨て置く時は、庭木も荒れて野生同様になってしまい、ついには伐採して薪にするしかないものになってしまいます。
ですが、さまざまに草木を養い育て、外部からやってくる害虫や病気を防ぎ、その樹木の持って生まれたものに応じて、それぞれの品格を養い維持させるのは、植木屋の腕の見せ所です。


ですので、教育家がいかに注意してその注意が行き届いていても、生まれつき愚かな人を智恵ある者に変化させることはもちろんのこと、どのように勉強を勧めても、持って生まれた天性の才能がないのに学問の道を得させようとすることは、到底望むべきでない願望です。
ですので、その人それぞれの遺伝や持って生まれた才能がどのようなものかを観察して、その人が到達できるところまで到達させ、あとは、ただその人を荒れさせて薪のような人間にならないようにすることだけに注意すべきです。