現代語私訳『福翁百話』 第十九章 「たった一つの言葉、たった一つの行為も、おろそかにすべきではありません」
「大海の一滴」「九牛の一毛」という言葉があります。
世間の人が一般的に使う場合は、一滴の水は大きな海を増やしも減らしもしない、九頭の牛の中の一本の毛は物の数にもならない、という意味です。
しかし、緻密に考察してみるならば、たとえ一滴の水や一本の毛であっても、決しておろそかにすべきではありません。
足で地面を踏めば多少の震動を生じ、周囲にある建物や木や石をはじめとしたあらゆる存在すべてが、その震動の余波を受けます。
それだけでなく、地球全体も、この震動のために影響を受けて、他の天体との関係に多少の変化を生じていることでしょう。
ただ、私たち人間の眼には見えませんし、また観測機械によっても観察できないぐらい本当にささいな変化なのですが、物事の道理においては、なんらかの変化を生じているに違いありません。
形のある物質的な事柄も、形の無い精神的な事柄も、道理においては同じです。
ですので、人間の言葉や行為も慎重にすべきことはもちろんのこと、たとえささいな遊び半分のたった一つの言葉やたった一つの行為ですらも無頓着にすべきではありません。
たった一言、他の人の秘密をもらしてしまったばかりにその人に損害を与え、ひどい場合はその人の家庭を壊し、その人を死なせてしまう、という災厄に陥れてしまった事例は、過去の時代にも現代にも多くあるものです。
こうした極端な事例は特に世間の人の注目を引きその目に触れることですが、そこまで注目を浴びない目立たない事柄においても、人が見ていないところや、聞いていないところで、たった一つの言葉や行為が、幸福や不幸の原因をつくりだしていることはどれほど多いことでしょうか。
勢い良く常に変化しているこの世界では、今日も、さまざまなささいな言葉や行為が、幸福や不幸の原因をつくりだしていることでしょう。
ほんの少し人に会って、暖かな言葉によって相手の心を和ませ、あるいはアドヴァイスをしてあげて、その相手がちょうど今まさに自分の人生の方向性に迷っている最中で、そのアドヴァイスを聴いて人生の進退を決めて、ついに人生を幸福に過ごし、その幸福の余波がその子孫にもずっと伝わっていき、何百年もの長い間、何千人もの多い人々が、その先祖の立派で幸福な人生の恩恵にあずかることもあります。
その反対に、心が狭くて人への包容力がなく、自分の気に入った人物を愛して気にいらない人物を憎み、感情の起伏が激しくて他の人の方向性を混乱させる人もいます。
そうした人は、そうした度量の狭さや感情の起伏の激しさによって他の人の人生を間違わせてしまい、その間違いはさらに第二の間違いの引き金となり、さらに連鎖していって深刻な事態になる場合もあります。
人の好き嫌いは単に個人同士の私的な事柄ではありますが、長い年月とともに、そうした好き嫌いが原因で起こる間違いや災いが波及していく範囲は非常に広く大きなものとなりえます。
一家の主人が家族サービスを大事にして家族の心を喜ばせ、一家の主婦のしかめ面が夫の心を痛めさせ、年長者の一言が若者の人生の方向性を左右し、若者のちょっとした仕草や行いがその賢さや愚かさを判定する道具となり、一度の同席の際の不愉快が一生涯の交流を台無しにしたり、たった一つの物の得失がその人の品性をあらわすといったようなことは、この人間の世界においていつも観察される姿です。
そうした事柄による喜びや苦しみは、単にその時その場にいた人だけにとどまらず、ずっと続いていって、はるかのちの時代においては、世界中の幸福や不幸の一つの原因にもなっていくものです。
もうひとつの事例を示すならば、今日、私たちが従事し、日本中に広まっている西洋の学問を始めた人は、江戸時代の中津藩の藩医であった前野良沢先生です。
前野良沢先生が西洋の学問を志したきっかけは、今を去ること百数十年前、当時、中津藩の藩士だったある人物が偶然にアルファベットが書かれた紙切れを持っていて、前野先生に見せたことがきっかけでした。
そのある人物は、どのような意図があってその紙切れを前野先生に見せたのかは、今となってはよくわかりません。
しかし、今から見れば、たった一枚の紙切れが天下を揺り動かし、その良い影響が何百年何千年と続いていくということは、議論の余地のないことです。
以上、述べてきたことに間違いがないならば、人間の世界の幸福や不幸は、その結果が生じるまでに時間がかかったりかからなかったり、原因から結果までの距離が近かったり遠かったりするという差はさまざまにあることでしょうが、どれもすべて人間の言葉や行為を原因として起こるという事実を観察すべきです。
「たった一つの言葉も、たった一つの行為も、ずっと消えずに何らかの結果を生じていく」と言うこともできます。
ですので、私たちは、家庭においても、社会の中で生きていくに際しても、たった一つの言葉、たった一つの行為、たったひとつの微笑み、たった一つのしかめ面も、決してなおざりにせず、おろそかにせず、慎重に慎重を重ねるべきです。
ただ、言葉や行為を慎重にすべきことは当然ではあっても、人間の世界は忙しいので、時々刻々さまざまな出来事に直面して、なかなか慎み注意しようとしても実際にはできないだけでなく、慎重になろうとするとかえって窮屈で不自由を感じ、結果として活発さを失う状況に陥ってしまうかもしれません。
ですので、できるだけ若い時から自分ひとりで精神を訓練し、あらゆる物事や出来事を迂闊に見過ごしたりせず、緻密に考察する心を養い、そうした習慣が段々と身について第二の天性となって、自分でも意識しない時にも一つの言葉や一つの行為によく気の付いた、立派な言葉や立派な行為をなす人間になるべきです。