現代語私訳『福翁百話』 第四章「将来の希望」

現代語私訳『福翁百話』 第四章「将来の希望」



第四章 「将来の希望」(前途の望)


天の定めたことは人間にとって道理にかなっているということはすでに述べました。
人間が思い通りにならないということは、人間の側の誤りや罪です。また、人間の側の力量や道徳が足らないことや、人間の側の無知や愚かさが原因です。


しかし、人間の進歩や改良は天の道理の定めているところでもあります。そのことは、世界の歴史が始まって以来の事実に基づいて証明されていることを見るべきです。


また、人間の世界に今までまだ実現されていないことを思い描くことは空想ではあります。しかし、すでに見ることができ、聞くことができる証拠によって将来を想像し予測する場合は、空想ではあっても議論の余地のないちゃんとした証拠のある話です。


以上の道理をよく理解したうえで、このことを人間そのものの資質についても適用して述べてみましょう。
孔子は道徳の分野における並外れて優れた人物です。
ニュートンは物理学の分野における並外れて優れた人物です。


孔子は七十才になってから、心のままに従ってもすべて道徳の法則にかなっている、と言われる状態になりました。この状態は、道徳の分野においては最高のものです。


しかし、孔子においては物理学についての理解や思考は存在せず、ただ道徳一辺倒の人物でした。
ですので、もし孔子ニュートンの物理学も理解していたならば、智恵も道徳も兼ね備えた人物だったと言えるはずです。


ですが、孔子ニュートンも二人とも、一方の分野に偏って両方を兼ね備えていないため、まだ不完全と呼ばれることを免れていません。


とはいえ、世界の歴史が始まって以来、すでにこの二人のようなすぐれた人物を人類が生み出したということは、大変に素晴らしいことで、人間が目指し到達すべき智恵と道徳の理想的な水準を示したものであり、人間の智恵と道徳の理想的な水準はこの二人によって知られるべきです。


たとえて言えば、二メートル四十センチの馬をつくりだそうというのは単なる空想に過ぎません。しかし、アラビア馬の種類にはすでに一メートル五十センチ以上のものは生れています。ですので、1メートル五十センチは馬が到達できる理想的な水準として考えても、なんら問題はありません、というようなものです。


そうであれば、世界が将来、孔子ニュートンのような人物を生み出すことは実に簡単なことです。
ただ将来だけとは言わず、いま現在の世界においても、世間の凡庸で通俗的な人は過去を理想化する妄想を抱きがちですが、そのような妄想は除いて、本当に活き活きとした眼ざしで世界を観察するならば、数多くの孔子、数多くのニュートンが、今のこの世界にいることは間違いないことです。


ただ、凡庸で通俗的な世間の人々の感情は、無意味に過去の時代の人を理想化して慕います。このようなことは、骨董品を重要視するのと同じで、その人物の本当の値打ちがどうかということを問わずに、ただ新しいか古いかだけを基準にして古いものを崇めます。そのため、このような人は、今の時代に生きる人々の素晴らしさや優れた点を知ることがないだけです。


あるいは、文句を言う人は、今の時代に孔子ニュートンがいるとしても、この両方を兼ね具えている人はいるはずがないというかもしれません。
しかし、人間の社会の進歩は限りないもので、地球の歴史の長さもとてつもなく長いことが決まっているので、進歩に進歩を重ね、改良に改良を重ねる間には、智恵も道徳も兼ね備えた並外れてすぐれた人を見ることもきっと容易なことでしょう。
それだけでなく、いつかは並外れてすぐれた人が大勢生まれて、その最高の到達度を想像するならば、この世界中の人が皆、孔子の七十才の頃のような道徳を持ち、ニュートンが持っていたような智恵を兼ね備えて、幸福な人生を過ごし、社会も完全に満たされていて、今の人が想像することもできないような状態に到達することもあることでしょう。


つまり、これは「黄金世界」の時代です。
私が言う「黄金世界」は単なる空想ではありません。
単に、過去の事例を証拠にして、将来を前もって言うだけのことで、将来の希望は、前途洋洋で、その明るさは春の海のようなものです。
なのに、どうして、今の世のことを世紀末だとか終末だと言う人がいるのでしょう。
そのような人は、方角の東西を勘違いし、朝と夕方の時刻を誤解していて、朝日が昇るのを見て夕日が沈むと認識しているのと同じようなものです。