現代語私訳『福翁百話』 第三章「天の定めたことは人間にとって道理にかなっている」

現代語私訳『福翁百話』 第三章 「天の定めたことは人間にとって道理にかなっている(天道可なり)」


天と人間が向かいあうこの宇宙の中の、あらゆる現象の中で働いている法則、つまり自然の真理というものは、絶対的に真実なものです。
しかし、自然の真理というものが、人間のためになるものか、人間にとっての利害はどうであるかということになると、古代から現代まで随分問題になってきたことで、多くの議論がなされてきました。


史記』を書いた古代中国の偉大な歴史家・司馬遷は、「天の定めたことは道理にかなっているだろうか、いや不条理ではないか(天命是か否か)」と言いました。
ですが、このような言葉は、ただ自分自身の不運を嘆き、それを歴史上の事実になぞらえて不平不満を述べただけのことで、一時的な愚かな言葉だと観察すべきです。


天の定めた道理が広大であって永遠であるかどうかということの是非を、たったわずか何百年か何千年の間に何百か何千の不運や不幸があったからといって、それによって判断するのは十分ではありません。
結局、司馬遷らの歴史家たちは、まだ天というものを知らなかったと言うべきです。
ですので、このような類の天についての議論は、その意見は浅はかなものとしてしばらく置いておくとしましょう。


しかし、また別の説もあります。その説が言うには、
「一見、天の道理はとても思いやりがあり精妙なもので、春夏秋冬の四季は正しくめぐって、さまざまないのちが成長し、農耕して食べ物をつくって食べることができ、織物をして衣服を着ることができ、衣食住すべて人間にとって可能であるように見えます。


しかし、これらのことはただ表面のみの良い面であって、裏面は必ずしもそうではありません。
たとえば、人間の寿命は、自然の運命なのでべつにその長さ短さを論じるわけではないし、生まれるも死ぬのもただ運命に従うこととはいいますが、人間が生まれる時は出産の苦しみで母親を悩ますことは大変なものですし、人間が死ぬときはこれまた病気の苦しみが大変なものです。
たとえ死ぬほどの病気ではないとしても、さまざまな病気がともすれば人間の身体を襲って無駄に人間を苦しめ、その苦痛や呻きはついにその人に自ら死にたいと思わせるほどであるものも少なくありません。
ましてや、遺伝病や伝染病、流行り病などは言うまでもないものです。毎年毎年無数のいのちが亡くなり、それらの病気はあたかも人を殺すという約束をしていて、その約束を毎年果たしているようです。


天の定めた道理が思いやり深く、博愛のものであれば、難産の母親にははじめから子どもを産まないようにするに越したことはありませんし、病気の苦しみによって人を殺し無駄に人を苦しめるような戯れをしようとするよりは、むしろその人をもともと生まれてこないようにすることこそが思いやりある道理というものでしょう。これこそいわゆる何の利益もない殺人とでも言うべきことです。


また、自然において四季がめぐって天候が順調なことは地球の通常の姿のようですが、時には天の怒りにあうときには、台風や暴風雨が田畑を荒らし、家屋を倒壊させ、海上の怒濤は船舶を転覆させ、人々を殺すというようなことは、その地域では毎年毎年とは言わないとしても、世界中を見渡せばほとんど毎日のような災いで、その数は枚挙にいとまがありません。


それだけでなく、火山が噴火したり、地震が起こることなどは、災いの最も激しく最も広い範囲に渡るもので、残酷で思いやりがないこと極まりないと言っても過言ではないことでしょう。


さらに人間の世界のことに考察を進めても、理解できないことは枚挙にいとまがありません。
天の定めた道理が完全なもので、人間に安らかで幸福にさせたいと思っているならば、まずは人間の心を善くすることこそ最も第一に大事なことなのに、世界には悪人が非常に多いものです。


殺人や強盗、みだらな男女の間の不倫は、人であって人でない所業ですので、こうしたことは動物の類としてしばらく議論の対象から外すとしましょう。


だとしても、立派な志や理想を持っていると自称する人々や思いやりや愛の心に満ちていると自称している人々が、政治の上でも経済の上でも、その他のあらゆる人間社会のコミュニケーションの上においても、自分たちの利益をはからない場合がありません。


国家をつくれば国益と言い、家族を築けば家族のための利益と言い、自分たちを先にしてその他の人々を後回しにし、ひどいものは他の人々の痛みをまったく想像せず、ただ自分たちの利益だけに専念する者もいます。


なお一層ひどい場合に至っては、国家と呼ぶ徒党を組んで、公然と自分たちと他の人々の間を区別し、お互いに異なる利害をもっては争い合い、あげくのはては兵器を使って殺戮をほしいままにして、人を殺す数が多い国ほど、そのことに巧みである国ほど、強い国と呼ばれます。
そのような事態にあたってさまざまな悪い謀略をめぐらしあくどいことを成し遂げた人は、政治家として軍略家として、立派な愛国者であると呼ばれます。
世界中にこのことをおかしいと思う人もいません。


これらの事実を見れば、天の定めた道理は人間の悪事を制止しようとするどころか、かえって人間の悪事をそそのかしているもののようです。
人間は天の道理が存在している一つの肉体とは言いますが、全身どこにも道理の存在しているところは見えません」
などなどと、この立場の人は言います。


このような説は一見、事実によって証明されていて、根拠があることのようです。
ですが、私の観察するところによれば、この類の議論は物事の始まりや終点を狭い範囲に限定して、原因と結果の法則によって生じる報いをあまりにも急いで求め、まだ天の道理の広大さに思い至っていないものだと断定せざるをえません。


よくよくこの世界の歴史が始まって以来の人間の様子を見れば、進歩することはあっても退歩することはありません。
言いかえれば、人間には、進歩改良という特徴があるということです。
その一部分のみを見れば、難産に苦しむ人もいるし、難病に苦しむ人もいるし、伝染病や流行り病にかかる人も多いものです。
しかし、そうではあっても、人間が生まれつき自然に病気があるということはありません。病気というものがあるのは、人間の智恵がいまだ十分発達していないことが原因です。
欲望によってさまざまな自然の法則を破ったり不養生を犯してしまったことが原因で病気になったり、そのことが遺伝してしまったり、その遺伝に加えて人間自らがさらに法則を破ったり不養生で自らを傷つけてしまう、そうした罪のどれでもないものが病院の原因であるということはないのです。
動物が自然に従っていれば病気になることがほとんどないことを見ても、このことを理解するべきです。
そうはいっても、人間には欲望が活発であるのと同時に、智恵や知識の発達も非常なもので、長い目で見た利害を理解する知性があるがために、智恵によって欲望を制御して身体を守り、子々孫々に進歩を伝えていくうちには、いつかは自然本来の姿である病気の無い健康な姿に人類が還る日もあるであろうことは疑いありません。


ましてや、伝染病や流行り病などのようなものは、言うまでもないことです。
それらにかかるのは、結局、人間の智恵がまだ発達していないことが原因であり、社会の学問や知識がもっと進歩する時には、これらの病気をなくし、これらの病気を予防することの簡単さは、風や雨を防ぐのに家屋やマントを用いることとなんら変わりはないことでしょう。


現在の学問や技術が未熟で欠点が多いことは、今ですら多少は実感し体験するところです。ですので、未来から現在を見た場合に気付く未熟さは容易に推測できることでしょう(細菌学の未熟さなどはその一つの事例です)。


また、台風や暴風雨や地震などの災害を挙げることによって、天が思いやりがないと言うようなことは、あまりにも根拠のないことだと言わざるを得ません。
風や雨や地震は天の道理の必要性・必然性によって生じることです。
ですが、人間の智恵がまだその必要性・必然性を理解せずに、いたずらにそれらの自然災害の害を恐れることこそ愚かなことでしょう。
その必然性・必要性を理解しないのはまだ許されるかもしれません。
しかし、天の道理はあらかじめこうした変化変動が生じることを必ず前もって知らせていて、いまだかつて間違って知らせていなかったということはないのです。
にもかかわらず、人間の智恵の闇がそうした予知予報に接していながら、その事態を避けることを理解させず、予防することを理解しなかったのです。
その様子は、たとえていえば、友人から手紙をもらっていたのに読むことができなかったことと同じです。


現在のまだ十分に学問技術が発達しきっていない社会においても、すでに気象学の成果として風や雨の変化を天気予報し、船舶に蒸気を利用して海上の災いを避けて航行するなどのことは実現しています。
このことは、百年前と比較すれば少しは自然の伝えることを理解できるようになったというべきもので、この方向性で進んでいけば、火山や地震などの変動を予知し予防する方法を理解することも、そんなに遠い将来ではないことでしょう。


また、人間の世界の中では、経済においては私利私欲で争い、国際的には戦争を起こしている、などなどの苦情を言うことも一見仕方がないことのようではありますが、この世界の歴史が始まって以来、たった五、六千年しか経っていません。
たったそれだけしか経っていない今日において、人間の智恵や道徳が未熟で幼稚であることは、たとえていえば、人間の寿命を百年とすれば、今はちょうど二、三歳の幼児のようなもので、それと全く同じです。


この子どもたちが、地球の上のあちこちに群れをなして勝手気ままに動いているのですから、破廉恥なことや乱暴なことは、そもそも仕方ないことで、ちっとも不審に思う必要はないことです。
いわゆる経済人・企業人というものが、利益を重んじて投資によって稼ぐことを目指し、政治家が熱心に名前を上げようとするのは、ちょうど子どもが欲を出してお菓子やおもちゃを他の子どもと争っている姿と同じです。あるいは自分でお山の大将を気取って他の子どもたちを見下し、恥も知らなければ道理も知らず、またお菓子やおもちゃがどれだけ必要なのかの数量もよく理解せず、大将になって利益があるのかないのかも理解せずに、むやみに自らの分を多く分捕って威張ろうとする愚かさと全く同じです。
ただ、こっちは二、三歳の子ども、あっちは三、四十才の子どもで、ちょっと外見の様子は違っているだけのことです。


また、この年をとった子どもたちが、自分たちの中でお互いに争う心があるならば、外に向かって争うのも自然のなりゆきで、世界の各国が群れをなして、子どもの集まりと子どもの集まりとのケンカを行い、そのことを呼んで戦争というわけです。
全く幼稚な子どもの心を少しも出ていないことです。


ただ、私は、視野をはるか遠くにして、千年も万年も先を見て、天の道理に任せて子どもが成長することを待つことにしています。
人はひょっとしたら、千年も万年も先を空想してそのことに安住するのは知識人のするべきことではないと言うかもしれません。


ですが、私の想像は必ずしも空想というわけではありません。
一般的に、未来を想像する際の根拠は過去の事実にあります。


天の道理がはたして真実で、人間がはたして進歩し改良されていく生き物なのかということについて、過去五、六千年の間になされてきた人間の進歩によって考え、未来の何千年、何万年先を想像するということは、決して根拠のないことではないでしょう。


宇宙の永遠の長さに比べれば、この人間の五、六千年の歴史は、たとえていえば、ただ百年の中の最初の一年、いや一日にも満たないというべきものです。
にもかかわらず、この短期間に人間は進歩するばかりの一方で、いまだかつて退歩したということを見ません。


昔の人は、衛生状態に対する決まりごとも知らず、短命の人が多いものでした。
今の世の中でこうした衛生や文明を理解しない程度の人々が次第に衰えて消えていっていることを見ても、このことは証明できます。
文明を理解した人はそうではありません。
学問の進歩とともに、次第に寿命が伸びるという成果は統計上明らかなことです。


昔の人は、水や火を恐れてもっぱら避けていましたが、現代の人はかえって水や火を利用して人間の役に立つことに使っています。蒸気や水力や電気のようなものはその一つの事例です。


昔の人は、人間の命を軽視して思いやりの心が乏しく、ひどい場合は同じ人間を煮殺したり、さらにひどい場合は人間の肉を食べていました。
それと異なり、現代の人の心はだんだんと穏やかになり、殺し合いを嫌がり、ひとつの例としては戦争中であっても敵の負傷者は救うという決まり事さえ実行されるようになりました。


昔の人は、君主や王と呼ばれる一人の以外の人は奴隷か、奴隷のようなものだと見られていましたが、現代の人はきちんと法律によって保護されて安心して過ごしている場合が多くなっています。
昔の人は、その刑罰に拷問や肉体を痛めつける刑罰がありましたが、現代の人はそうした残酷な刑罰は廃止する傾向があります。
昔の人は服装も食事も質素でみすぼらしいものでしたが、現代の人の服装や食事はだんだんと発達して美しくおいしくなってきました。
昔の人の人間関係は敵が多くて警戒することが大変でしたが、現代の人の社会は安全でいろんな娯楽を楽しむだけの余裕があります。


総じてこれらの事実を列挙するならば、枚挙にいとまがないものです。
どのような説を立てようとも、千年前の野蛮と現在の文明とを比較して、千年前の方が良かったということを立証することは難しいことでしょう。


ただ千年前のみならず、百年前と後とでも、苦労や快適さにおいて大きな違いがあります。
中には、今の時代を終末の時代だとか世紀末だとか言ってしきりに昔を慕いなつかしむ人もいないわけではありませんが、こうした類の人は物事のほんの一部のみに目を奪われて、大きな流れの動きや変化を理解していないのです。
そうした類の人々は、世界の人類の全体を見て、最大多数の最大幸福やその平均値というものを全く理解していない人なのですから、その主張や言っていることは全く取るに足らないものです。


そういうわけで、今を生きる私たちは、世界の歴史が始まったまだ比較的早い段階でこの地球に生まれたので、人間の世界はあたかも智恵もなく道徳もない人々の巣窟のようで、あらゆることが思うとおりにはなかなかいかないものではあります。
しかし、そうした思うとおりにはいかないということは、天が不条理なためではなく、人間の側の誤り・罪です。


また、そのような状況であっても、人間には善を求める本来の心があり、進歩改良していく智恵や知識があり、こうした本来の素質を磨いていけば、いつかは完全な状態にまで到達することは、全く疑う余地のないことです。


たった五、六千年の歴史を見ても、進歩の成果は明白です。
ましてや、これから何千年、何万年の未来においては、言うまでもないことです。
もしくは、しいて何千年何万年と言わず、今までの歴史を五、六千年として、これからさらに五、六千年の未来を予想しても、未来の子孫たちの幸福はとても有望なものと言うべきでしょう。


今から五、六千年の未来から今現在の歴史を見る人がいたら、ただただ私たちの智恵や知識の乏しいことや道徳の低さ、愚かさや乱暴さを、憐れみ笑うばかりで、その様子はちょうど今の私たちが大昔の野蛮な時代の人肉食の風習を憐れに思う心と同じことでしょう。


要するに、今現在のいわゆる文明世界に生きて生活している人々は、まだ世界の歴史が始まって少し経ったばかりの子どもであって、つくりはじめの地球に生まれたばかりの子どもが群れて集まっているものなのですから、地球も若く、人類も幼稚で、これに対して完全を求めることこそ無理な注文でしょう。


ただ、私たちは、過去の事例を参考にして、人間の世界の進歩に間違いがないことを理解し、そのことによって、「天の定めたことは人間にとって道理にかなっている」、ということを理解し証明するだけのことです。


ですので、私たちの今の境遇を昔の人たちと比較すれば、私たちはとても幸福なものではありますが、未来の子孫を想像すれば、未来の人々に私たちは遠く及ばないわけで、そういう意味では大変な不幸の中にいるわけです。


そうではあっても、私たちの今現在が存在するのは、ひとえに先人たちの努力の賜物ですから、その恩に報いるために、今度はより一層努力して文明を管理運営して、未来の子孫たちにさらに大きな利益を与えるようにしなければなりません。
このことは、ごく自然な、おのずからなる、人間の義務とでも言うべきものでしょう。