現代語私訳『福翁百話』 第二章「天のつくったもの」

現代語私訳『福翁百話』 第二章「天のつくったもの」



宇宙の中のあらゆる物体は、常に動き変化して、その変化にしたがって生じたり滅したりして、始まりもなく終わりもなく、際限のないものです。


大地から立ち昇った水蒸気が、雲となって、雨となって、川となって、海となって、また水蒸気になって立ち昇り、雲や雨となるようなことは、最も観察しやすいひとつの事例です。


宇宙の中のあらゆる物体に、この事例と同じでないものはありません。春夏秋冬の四季の変化にも、草木は伸びて、枯れます。暑さ寒さや風や雨がやって来ることによって、家の屋根は傷んだり壊れたりします。人間は産まれると子どもから大人になり、やがて年寄りになり、さらには死んでいきます。蚕の卵は孵化して、蚕のこどもとなり、繭となって、ついには蝶になり飛び去っていきます。


これらの変化は、時間の長さや短さの違いはあるものの、変化するという様子はひとつです。それだけでなく、太陽や月や星のような天体も、永遠のいのちというわけではなくて、回転し運動するその間には、徐々に形を変化させていき、変化が止まることはなく、やがていつかは壊れてばらばらになる時がやって来るのは確実です。
この決まりはただ仏教用語でいうところの「生者必滅」(生じたものは滅するということ)という文字の上から言っているだけの空想ではありません。物理学上において確実なことを観察すべきです。


そういうわけで、宇宙の中のあらゆる物体がいつかは必ず滅びるということは自然の真理なのですが、そうはいっても、その滅びるということは、ただその形が変化するというだけのことで、物質が消滅してしまうということではありません。


水蒸気が立ち昇って雲となることは、地上の水が滅びてしまったということではありません。水と雲と、形が変化したのみのことです。
ここに、腐っていたんだ木や、燃える薪があったとします。向こう側に森や林が生い茂っているとします。腐っていたんだことによって消え、燃えて消え散ったように見える木の物質は、実は変化して新しい樹木の形に再び還っていくだけのことです。


宇宙の中のあらゆる物体は、大きなものは天体から、小さなものは微かな塵に至るまで、常に変わらない姿というものは存在せず、常に変化している途中にあります。しかも物質の質量そのものはほんの少しも失われず、ほんの少しも加わらず、始まりもなく終わりもなく、いまだかつて増えも減りもしないこと。この質量保存の法則は確実な法則と言うべきでしょう。


また、物質の変化と不滅については今述べたようなものですが、さまざまな宇宙の中の物体の構造組織や運動変化の、その様子の精巧でその規則の正確なことは、私たち人間の智恵や想像の及ばないところがあります。


自然の光のスペクトルの七色は、いまだかつて濃くも薄くもならず、百十八種類の元素(福沢諭吉の時代は七十種類まで知られていた)の性質はいまだかつて異なったり変動することもなく、宇宙の中のあらゆる物体は生じては滅する間に、必ず一定の法則に従うことに決まっています。


さらに人間について言うならば、千年前の人が火傷することも今の人が火傷することも、痛みを感じることは全く同様であって、火も指もなんら異なるところは観察されません。


千万年の昔と今と、地球上の五つの大陸において、人間と呼ばれるものであれば、目は二つで手足が二つずつあって、直立歩行することなど、外側の姿が同じであるのはもちろん、内側の筋肉のつくりや内臓のつくりから、とても細かで微かな細胞組織に至るまで、その形が同じでその性質が同じです。それだけではなく、人体の構造の精巧な点は、そもそも人間のつくるものなど到底真似することもできないものです。


たとえば、人の首が前後左右に自由自在に動き、上を向いたり下を向いたり、伸び縮みして滑らかに動きながら、一定の位置に留まる時はきちんと動かないようなことは、どんな機械を工夫しても到底及ばないことで、その他のこともこのことから容易に推察すべきことです。


人体の構造組織がこのように精巧であるのと同じように、人体の働きもまた精妙なものです。
一般に、気候風土の違いや、人為的な習慣の違い、なんらかの妨げなどがないのであれば、同じ飲み物や食べ物、あるいは薬を人間が摂取すれば、必ず同じ効果が現れ、酒を飲めば酔っぱらい、下剤を服用すれば下し、夜は眠り、昼は起き、食事の回数さえだいたい人間においてはほぼ同じことを観察すべきです。


上記のような形があるものだけではなく、形がない感情や心の働きについても、人間の喜怒哀楽について観察すれば、知性の発達の程度によってその感情の深さ浅さや大きさ小ささの違いはあるとしても、心や感情の主な部分はひとつです。


男女がお互いに惹かれ愛し合い、父母を慕い、子どもを愛し、兄弟姉妹がお互いに頼りとし、出身が同じ者同士や友達同士が助け合うことは、人間にとってはごく当たり前の原則的なことで人間であれば異なっていることはありません。


特に人間においては、恥を知り、人間同士の付き合いの中での道理というものを知っていて、物事の重要性の順位を理解し、時間の長さや短さを計り、便利さを求めて改良や進歩を工夫して、自分だけの利害ではなく、多少なりとも人類や仲間のために役に立ちたいと思う心が存在している点は、人間が自らを重んじて万物の霊長と自称する理由と言えるものでしょう。


動物や植物の世界を観察すれば、人間に等しいような心の主要な部分は存在せず、また改良や進歩の痕跡はありません。動物においては、ただ食べることを求め、両性がお互いに近づくといった感情があるという部分は、やや人間と様子が同じところもあります。しかし、草木においてはただ単に両性の特徴が存在するというだけで、生命としての進化の程度の違いは一見明白のように見えます。


しかしながら、動植物もその形態の構造組織を観察してみると、高度に進化しているように思われる人間も、それほど進化していないように見える動物や植物も、皆まったく同様に、本当に不思議という他ないものです。


馬は馬を産み、牛は牛を産み、梅の実からは梅の木が成長し、米や麦の種を蒔けば米や麦が成長し、動物や植物が何百種類もあってその系統がきちんとしていて少しも秩序が崩れることはなく、ほんの微かな細かな組織にいたるまでおろそかにすることはありません。


ひとひらの蝶の羽を取って、詳細に観察してみれば、その美しさや緻密さは肉眼で見ても喜びが生じるものですが、さらに顕微鏡で観察してみると、その美しさはますます美しく、その組織構造が精妙であることはただ驚くばかりです。


それだけでなく、同じ種類の同じ名前の蝶であれば、何千万という数のどの蝶であっても、すべて皆まったく同じ組織構造であることが確実であり、違っているところを観察することはありません。


このことは宇宙の中のあらゆる物に一貫している原則であり、動物や植物などの生命の中のどの動物も、どの木や草や枝や葉も、生命ではない物体の中のどの鉱石や一粒の砂や塵や埃のかすかなものに至るまで、この原則によって網羅されていないものはありません。


つまり、自然の微妙さ精妙さは、言うまでもなく人間の力の及ばないもので、「天の意志(天意)」「天のつくったもの(天工)」の存在するところを知りたいと思うならば、自分の身体の外のものはすべて天であって、一粒の塵の中にもよく天を見るべきです。
いいえ、自分で自分に目を近づけて観察すれば、自分自身もまた天の力が存在している一つの肉体であるという物事の道理に気付くことでしょう。