現代語私訳『福翁百話』 第二十八章 「必要な分の衣食住が満たされても、人間の欲求はもっと大きくなるものです」

現代語私訳『福翁百話』 第二十八章 「必要な分の衣食住が満たされても、人間の欲求はもっと大きくなるものです」


もし、人生の目的は働いて衣食住の生活をきちんと満たしていくことだと言うならば、必要な分の衣食住が満たされれば人生の目的は達成されるように思われるかもしれません。
しかし、実際は決してそうではありません。


衣食住の問題はすでに解決して、贅沢や繁栄が頂点に達し、さまざまな楽しみや資産確保の工夫を尽くして、もはやお金に用はないというような境遇になっても、昔からお金を捨てた人がいるという話は聞きません。


ただ捨てないだけでなく、お金を求め続け集め続け、多く得てもますます不足していると感じるものがお金というものであり、千に万を足し万に十万を加え、百万千万限りあることがありません。


人間の欲望は数多いものですが、その欲の中でも最も激しく最も長続きするものは、お金に対する欲望です。
八十才のお年寄りが、死がもう間近に来ているというのに、お金を愛すること若い時と同じ、いえ、年をとってますますお金を大事にするというようなことはよくあることです。


ですので、人間がお金を集めるのは、必要のためではなくて、自然に持って生まれた人間の固有の性質に由来することで、たとえば春や夏の季節にミツバチが冬の用意のために蜜を集め、その必要な量を測りもせずに必要以上の食料を集め蓄えるのと同じです。


単に笑い飛ばすべきことのようですが、人間のお金を増やすための営みについてはもう少し説明すべきこともあります。
人間がお金を増やすことができるならば、社会に対して利益をもたらし、社会の利益を大きくすることもあるため、一概に人間のお金に対する欲求を笑い飛ばすのは精緻な思考を持っているとは呼びがたいものです。


お金を増やそうとして投資などを行う人々の気持ちには、以下の五つの理由があると私は個人的に考えています。


第一に、子や孫のことを思う気持ちが原因です。幸運や不幸がめまぐるしく転変するこの世の中では、自分の身は幸いに無事であっても、子や孫の浮き沈みは予測がつかないものです。万一の時に経済的に裕福な財産があれば、たとえ完全にあらゆる災いを逃れることができないとしても、少しでも苦痛を少なくすることは十分にできるだろうと考えて、子や孫へのひたむきな愛情からお金を好むということがあります。


第二、先祖に対する義務を忘れないことによります。自分一代でつくった財産ならば、お金を得るも失うも自分の管轄内のことですが、先祖から代々受け継いできた遺産ということであれば、自分はちょうど自分の代を管理するだけのことであり、自分の所有であって自分の所有ではないという考えは、先祖を大切にする習慣の中で育てられてきた人には避けられないものです。ですので、財産を増やすことは親や先祖への孝行であり、財産を減らすことは不孝であると考えて、努力する気持ちがあります。


第三、死後の名誉を重んじるという感情によります。人間は一万年もとても生きられない身ですが、親から子へと次々にいのちや名前がつながっていけば、その薪自体はなくなっても火が他の薪によって燃え続けるというような考えから、お金を投資や事業で増やして大きな家や会社をつくり、その家の名前を子孫に伝えて、その名前がますます盛大であれば、自分の身は死んでも生き続けていくと考えて、ずっと後の時代のことを想像して自分の名誉欲を満足させます。このような段階になった場合は、必ずしも自分の直接の子孫を愛する気持ちがあるだけでなく、子どもがない場合は養子や嫁をとるなどして、わざわざ他人を家に入れても家の名前を維持する人も多いものです。


第四、死後がどうなろうと気にせずに、生きている間の自分の威勢を喜ぶという気持ちによります。大金持ちの威勢というのは大変なもので、そのちょっとした表情や仕草によって社会や経済に影響を与えることすらあります。
そのような影響力の大きさは、その人の威光とも言えますし、名声とも言えます。
知識人が自分の議論や著作や発明を重視し、政治家が権力を争うのも、このことを求めるという点で同じ一つの目的から生じていると言えます。


第五、難しいことを喜ぶという気持ちによります。人間のこの世界においては、苦しいことは楽しいことでもあり、学者が苦学することも、政治家が艱難辛苦を乗り越えることも、すべて苦しいことの中にある楽しいことです。
そうした苦労の真っ只中においては、ただ苦しむばかりで何の成功も達成もまだ見えないかもしれませんが、他の人がなすことが難しいことを自分は努力していると思えば、そのことによってだけで自分を慰めることができることでしょう。
お金はすべての人が欲しがるものであり、また獲得することがとても難しいものです。
得ることが難しいという理由で、お金を獲得したいと考え、熱心に努力する。
そのことも、人間の感情として自然なものだと言えます。
その熱心さが非常に大きなものに達すると、お金そのものを得たり失うということよりも、経済上の競争や攻防の戦略戦術そのものにこの上ない喜びを感じて、あげくのはてには自分の家の財産がどうであるかということも忘れて、死ぬまで経済上の戦略戦術に努力して飽きることもない人が多くいるものです。
八十才のお年寄りがお金を愛するようなことは驚くほどのことでもありません。


だいたい以上の物が、大金持ちがお金を貯め続けて飽きもしないことの理由であり、これらの理由は哲学的な観察眼によって考察するならば他愛もない理由ばかりで、小さな子どもの遊戯に似ているものです。
しかし、結局のところ広大な宇宙の中ではウジムシと同じような存在である人間がやっていることですから、深く論究することには値せず、人間の感情としては自然なものとして許容すれば良いことでしょう。


そして、そのような感情によって実現されることはどのようなものかと考えるならば、社会にとって大きな利益になるものもあるわけです。
一般的に、現代の文明の世界においては、人間にとってより便利なことを企画し、学問を応用して自然の力をコントロールし、自然を変化させてより人生を安楽にさせるような事業は、どれも必ずなんらかの資金を必要としています。
海の上を行く蒸気船や、陸上を走る蒸気機関車をはじめてとして、あらゆる工業、製造業、ビジネス、交通などは、どれもすべて資本家の投資によって起される事業であり、その資本が大きくなればなるほど、その事業もますます大きく便利なものになる場合が多いものです。


もしも、この社会の人々が欲が少なく、最低限の衣食住が足りればそれで良いとして、みんな小さな成果に満足し、大きな努力や大きな利益を求める心がないならば、とても今日のような文明の進歩を見ることはできなかったことでしょう。


今日の文明社会においては、そうではなくて、次々と新しい事業が発達し、そのことによって社会全般の喜びや快適さが大きくなっているのは、資本家・投資家の利益を求める心に際限ないことが原因です。
人間の欲求・欲望が大きいことは、大きな利益や功徳があると言うべきでしょう。