「姿なき文殊菩薩への十の礼拝」(現代語私訳「文殊師利菩薩無相十礼」)

「姿なき文殊菩薩への十の礼拝」(現代語私訳「文殊師利菩薩無相十礼」)


清涼山(五台山)の中に偉大なる文殊菩薩はおられます。
静座して心を正しく観察すると、心とはとらえることができないものだと気付きます。


真心をこめて、あるがままのこの世界の仏様に帰依し礼拝します。


あるがままの姿とは、色も無く、形や姿も無く、根拠もなく、住むところもありません。
本当は生れることも滅することもないからです。
数えきれないこの観察に礼拝します。


あるがままの姿とは、来ることも無く、去ることも無く、取ることも無く、捨てることもありません。
眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚器官への執着から離れているからです。


あるがままの姿とは、輪廻するこの世界から超越して、宇宙の空間のように平等なものです。
さまざまな煩悩に染まっていないからです。


あるがままの姿とは、さまざまな立ち居振る舞い、たとえば行ったり来たり、寝たり起きたりすることにおいて、いつもサマーディ瞑想を保っているため、行くも来たるもすべて平等(捨、ウペッカー)であり、平等の心を保っています。
平等とは決して壊れることがないからです。


あるがままの姿とは、さまざまな姿のない瞑想に入り、さまざまな存在の清らかな静けさを見ます。
さまざまな清らかな静けさへの執着を離れているからです。


さまざまなみ仏様たちは宇宙の姿です。宇宙であり、また姿のないものです。
さまざまな原因と結果の連なりから離れているからです。


宇宙は中心も端もありません。さまざまなみ仏様たちの御身体もそのようなものです。
心が宇宙と同じになっているからです。


み仏はいつもこの世界におられて、しかもこの世界の煩悩に汚れたありかたに染まることはありません。
この世界に執着せず、はからうことがないからです。


さまざまな存在がよって立つものは幻のようなものです。
幻のようにとらえることはできません。
さまざまな幻のような存在を離れているので、み仏はあらゆるものを平等に礼拝します。
無礼な衆生も、失礼なことはしない衆生も、ほんの一回み仏を礼拝しただけでみ仏の印象が心に備わることになり、平等に真実の姿に帰命します。


あまねく、父母・仏法僧・国家・衆生の四つの恩ある方々のために、そしてこの輪廻の世界の中のすべての存在、この世界の生きとし生けるものたちのために、み仏に帰依し、懺悔し、真心をこめて懺悔します。
過去・現在・未来における私自身の罪の性質を探してみるならば、自分の内側にも外側にもその中間にも、本当は心の実体というものはどこにも見つかりません。
すでに心の実体というものが見つからないので、あらゆる存在は静けさに達しています。
欲望・怒り・無知の三つの毒も、無常・苦・無我・不浄を見ることができない四つの顛倒した思いも、同じく本当はどこにも見つからず、静けさに達しています。


懺悔しましたので、真理であるみ仏に帰依し礼拝し、真心をこめてみ仏にお願いします。
あらゆる存在はもともと生じないものです。
すでにもともと生じないものなので、どうして滅するということがあるでしょうか、決して滅することはありません。
(常に存在は変化しており、生まれて死ぬことはそのほんの一部を切り取ってそう思うだけで、あるのは本当は変化することだけです。)
生じず、滅しないという無常の性質は、永遠に存在します。
ただ、願わくば、さまざまなみ仏様たちは、完全なるニルヴァーナに入ってしまわれることなく、さまざまな生きとし生けるものたちにこの本当の姿を照らして見させて、ニルヴァーナという場所において自然に遊戯するように生きていくことができるように生きとし生けるものをお導きください。
み仏の教えを実践する人が、もし身体と精神(五蘊)を照見することができれば、自分も本当は実体がないもので、他人も本当は実体がないもので、どちらもさまざまな関係の中に存在しているものだと気付きます。


このようにお願い申し上げ、真理であるみ仏に帰依し礼拝し、真心をこめて随喜します。
存在は本来は、なんの貪欲もなく、恐れもなく、それ自体として存在する実体もなく、したがってその存在ひとつだけで存在するということはなく、また他の存在と全く異なって独自に存在しているということもなく、すべての生命は平等で、本当は一如だということを観察すれば、生じるということはなく(したがって死ぬということもなく)変化があるだけなのだということを悟ります。
すべての関係がないと思っているものも、すべて平等に関係がある存在だと観察すれば、み仏の無条件の慈悲への随喜が心に満ち満ちます。
あらゆる存在はそれ自体としては存在せず、実体ではなく関係なのだと観察すれば、あるがままの姿が照らされて見えてきます。
ただ願わくば、生きとし生けるものが自ら努力して心を照らし、心というものの本当の姿は清らかなものであり、誤って妄想して執着しているものもこの宇宙も本当は平等で、み仏の智慧こそが真実であるということがわかりますように。


このようにみ仏の慈悲と智慧を随喜申上げ、真理であるみ仏に帰依し礼拝し、真心をこめて回心いたします。
暗い部屋の中で迷い、ほんのかすかな自分が持っている灯りで自分の周囲を照らして、見えている範囲から周囲を想像します。
自分が見えている灯りの範囲に執着しているので、自分という煩悩という塵が生じます。
今、自分の身の外ばかり照らすのでなく、自分自身という塵に光を向けて照らすならば、この塵にもそれ自体としての実体は存在しません。
どこにも執着して住むということがない、ニルヴァーナという場所に心を振り向けなおします。
その時、精神と身体(五蘊)を正しい智慧で照らして、第八識が清浄になったアマラ識で五蘊も包み含むことができるようになります。
このように、この五蘊の身をめぐらせば、仏の道を成就します。
行住坐臥のあらゆる振る舞いにおいて、悟りの真実の姿を現すことになります。


このように心を向き直し、真理であるみ仏に帰依し礼拝し、真心をこめて願いを起こします。
さまざまな生きとし生けるものを、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根で間違って流されることがないように導きます。
あわれみと智慧の二つをいつも実践して生きとし生けるものを照らします。
どんな時も常にはかりしれない無数の関係の中で生きていることを忘れません。
ものごとを実体として見ず、かといって実際に存在しないものだと見ることもせず、生きとし生けるものの恐れを取り除きます。
四智三身のみ仏によって生きます。
五眼(真観・清浄観・広大智慧観・悲観・慈観)によって常にこの世の中のさまざまな波を照らします。
三明を具えて、この輪廻の世界のあらゆる生きとし生けるものの心を煩悩の妨げがないように導き育てます。
以上のことを願います。
み仏の悟りの教えによって、あらゆる生きとし生けるものを助け救っていくことができますように。


願いを起こし、真理であるみ仏に帰依し礼拝し、あらゆる存在を敬います。
み仏の御徳とお悟りに帰依しました。
悟りを求める心は決して退きません。
願わくば、あらゆる生きとし生けるものとともに、あるがままの真実そのものに入り、真理の智慧に帰依し、このことを記憶するためのすばらしい記憶を保つ方法を得ることができますように。
願わくば、あらゆる生きとし生けるものとともに、あるがままの真実の海に入り、サンガに帰依し、無駄な議論で争うことをやめて、同じ仲の良い海に入ることができますように。
願わくば、あらゆる生きとし生けるものたちすべてと、悟りを求める心を起こし、心と言葉と身体による行為がいつも清らかで、人々と真理であるみ仏とを敬うことができますように。


さまざまな人々よ、お聞きなさい。
清らかな朝に聞くべきこの偈文を。
悟りの喜びをこそ欲し求め、まさに仏弟子の行う道を学ぶべきです。
どのように生活すべきかということは、生活の質の善し悪しは、その時の世の中の人々に従うことにして、あまり心を煩わさないことです。
さまざまな人々よ、今日のこの朝に、清らかに、偉い人であろうと中ぐらいの人であろうとまだ下座の人であろうと、どこの場所にいても、仏・法・僧・施・戒・天の六つを思いなさい。
さまざまな人々よ、そして午後には無常偈を聞きなさい。
人が生きている時に努力しなければ、たとえば樹(うえき)に根がないようなものです。
根がなければ、花や葉は、もうその一日の終わりになれば、新しさを保つ時を終えてしまいます。
花はずっと鮮やかに美しいままではいられません。
花の色がずっと好ましい美しさのままでいることもありません。
そのように、人の命もほんの一瞬のようなものです。
ほんの短い間も保ち続けることが難しいものです。
今、さまざまな人々に勧めます。
この上ない仏の道に努力しなさい。
さまざまな人々よ、夕方にもこの無上偈を聞きなさい。
この一日はすでに過ぎ去りました、したがって寿命は少し減って少なくなったようなものなのです。



原文
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20110615/1308149340