「聖なる智慧の五十の讃歌」 (「仏説五十頌聖般若波羅蜜経」現代語私訳)

「仏説五十頌聖般若波羅蜜経」の現代語私訳をつくってみた。
本当、これは仏教のエッセンスと思う。


書下し文自体が、今まで存在しなかったのを一か月前に私が白文からつくったので、ましてや現代語訳も今まで存在しなかったことだろう。
この千数百年の間に、ほとんど読まれたことのないお経と思うが、テーラワーダと大乗とに通底する仏教のエッセンスを説いたお経と思うので、広く多くの人に読まれるようになって欲しいと思う。






「聖なる智慧の五十の讃歌」 (「仏説五十頌聖般若波羅蜜経」現代語私訳)


西域から仏法を伝えに来た三蔵法師・施護が翻訳しました。


このように私は聞きました。
ある時、釈尊はマガダ国の首都・ラージャグリハのグリドラクータ霊鷲山)に、偉大な仏弟子(比丘)たち千二百五十人と一緒に滞在されておりました。
それらの仏弟子たちは皆、阿羅漢果の悟りを得て、さまざまな煩悩をすでに除き去り、煩悩がなくなっていました。心は解脱に達し、智慧に通暁していました。偉大な龍族の王のように勇猛に精進して、さまざまな束縛となる煩悩を断ち切っていました。煩悩や業の重荷を除き去り、すでになすべきことをなしとげていました。すでに無量の功徳の利益を得て、心は自由自在を得ていました。


その時、釈尊は、尊者・スブーティに告げておっしゃいました。


「もし仏法を信じる在家の男女や、出家の仏弟子や、辟支仏(ひとりで悟りに達する人)がいて、学問を修めこの上ない悟りを求める人がいれば、そのような人たち、つまりあなたたちは、今から説く「聖なる智慧の五十の讃歌」というお経を聞き、受けとめ、読誦し、理解し、人々に解説し広めれば、速やかに悟りを得ることができます。
スブーティよ、この「聖なる智慧の五十の讃歌」というお経は、人々にとってわかりやすい方法を十分に具えており、あらゆることに通暁し到達することができ、さまざまな仏陀や菩薩たちの非常に深い真理の教えを集めた宝庫です。この教えのとおりに学び、この教えのとおりに修行しなさい。
スブーティよ、もし菩薩(生きとし生けるもののために悟りを求めて修行する者)がいれば、この「聖なる智慧の五十の讃歌」経の功徳を喜び、聴き学び、よく保ち、読誦し、この教えのとおりに学び、この教えのとおりに修行しなさい。
なぜならば、この「聖なる智慧の五十の讃歌」というお経は、一切のさまざまな仏陀たち・菩薩たちの悟りの非常に深い真理の教えの宝庫を広く説き明かしたものだからです。
スブーティよ、そしてまたこの「聖なる智慧の五十の讃歌」経は、あらゆる出家の仏弟子たちの真理の教え・辟支仏たちの真理の教え・菩薩たちの真理の教え・悟りの部分をなす実践方法、さらに一切の仏陀たちのあらゆる智慧の真理の教えを、一つに収集し平等に収蔵しているからです。」


 その時、スブーティは釈尊に申し上げました。
「世尊よ、どのように、あらゆる出家の仏弟子たちの真理の教え・辟支仏たちの真理の教え・菩薩たちの真理の教え・悟りの部分をなす実践方法、さらに一切の仏陀たちのあらゆる智慧の真理の教えを、その「聖なる智慧の五十の讃歌」経は、一つに収集し平等に収蔵しているのでしょうか。」と。


釈尊は、スブーティに告げておっしゃいました。
「以下のあらゆる徳を収集し、収蔵しています。


六波羅蜜、つまり、布施の徳、戒めを守る徳、忍耐の徳、精進努力の徳、瞑想の徳、智慧の徳。
これらを集め、実践します。


内(眼耳鼻舌身意の六根)が空(それだけでは存在しない、他との関連ではじめて存在するもの)であると知ること。
外(色声香味触法の六境)が空であると知ること。
内(主観)と外(客観・対象)によって構成される人間存在が空であると知ること。
十方の世界が空であると知ること。
実相といわれるもの(涅槃)の自性はないと知ること。
現象世界は空であると知ること。
涅槃は空であると知ること
変わらないものとされるものも空であると知ること。
物事には固定的・実体的な姿がなく、形や特徴がない、ということ(無相)もまた空であると知ること。
さまざまな存在のすがたはすべて空であると知ること。
限りのあるもの、始まりのあるもの、有限の現象は、空であると知ること。
始めなくして存在するさまざまな現象はすべて空であると知ること。
自性(そのものの性質)は空であると知ること。
人(自我)と法(あらゆる現象)の両方は空であるため、何も執着すべきものがないと知ること。
さまざまな現象の実体は空であり、すべての存在にそれ自体の固有の存在性はなく、個々の存在それ自体として独立するものはなく、他のもろもろの存在と無関係には成立しえないと知ること。
以上に説かれてきたそれ自体の固有の存在性がないという教えそのものも、また空であると知ること。
一切の仏の教えが空であると知ること。
これらを集め、実践します。


四つの対象、つまり、身体・感覚・心・さまざまな現象、をあるがままに観察し、身体は不浄、感覚は苦、心は無常、さまざまな現象は無我であると観察することを行います。


四つの努力、つまり、悪を生じないよう勤めること、すでに生じた悪を除こうと勤めること、善を生じるように勤めること、すでに生じた善を増すように勤めること、に精進します。


意欲・精進・専念(心)・思惟の四つを起こし修行します。


真理への納得・精進・気づき・瞑想・智慧の五つを起こし、実践します。


気づき・選択・精進・心が澄んだ喜び・心身の軽やかさ・瞑想・心の平静、の七つを実践し、実現します。


正しい見解、正しい思考、正しいことば、正しい行為、正しい生活手段、正しい精進努力、正しい気づき、正しい瞑想の八つ(八正道)を実践します。


四つの真理、つまり、一切は苦であるという真理、煩悩や不善の行為が集まって苦となっているという真理、苦を滅することができるという真理、苦を滅するための八正道という真理を、観察し、実践します。


空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処の四つの、欲望も物質的条件も超越した、ただ精神作用のみの無色界の境地(四無色定)における禅定に達します。
四禅と四無色定とさらにその上の解脱に達するまで、瞑想を修めます。


修多羅(経)・祇夜(重頌)・記別(授記)・伽陀・優陀那(感興語)・如是語(本事)・本生譚・方広・未曾有法の九つの経典をどれも学び修めます。


空、つまり、ものごとはそれ自体としては存在せず、縁起によってできていることを知ります。
無相、つまり、自我と自我の所有するものが本当は存在しないことを知り、五感の対象への束縛から自由に生きます。
無願、つまり、貪瞋痴による願いがなく、自我と自我の所有するものが本当は存在しないことを認識し、輪廻の原因となる貪瞋痴から自由に生きます。
この三つの解脱に達します。


一切にサマーディ瞑想(三昧、高度の集中力)を発揮し保ちます。


大きなくもりのない鏡のようにすべての事象をありのままに照らし出す智慧、すべての事象は平等であると知る智慧、すべての事象をありのままに観察する智慧、なすべきすべての事をなしとげ衆生を救済する智慧、この四つの智慧を磨き実践します。


天眼通(高いところから何ごとも見通せること)・天耳通(遠くのことまでよく聴くことができること)・宿命通(自分の業や宿命・天命を知ること)・他心通(他人の心がよくわかること)・神足通(フットワーク軽くどこにでもいけること)の五つの神通に努力し実現します。


仏が具えている十種の力、つまり、 道理・非道理を知る力、業とその果報との因果関係を知る力、禅定や三昧を知る力、衆生の能力や性質の優劣を知る力、衆生の意欲や望みをあきらかに知る力、衆生の本性を知る力、衆生が諸世界に趣く行の因果を知る力、自他の過去世のことを思い起す力、衆生の未来の生死・善悪の世界を知る力、煩悩を滅した涅槃の境地とそれに到達するための手段を知る力、に到達するべく努力し、実践します。


一切の法をさとっているとの自信、煩悩をすべて断じ尽したという自信、さとりをさまたげる法(煩悩)を説いて畏れがない自信、さとりに入る正道を説いたという自信、の四つの自信を持つことをめざして精進し、実現します。


「生きとし生けるものが幸せでありますように」と強く願う慈しみの心。
「生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように」と強く願うあわれみの心。
この慈悲の心を育て、高め、実践します。


身・口・意の三業について過失がないこと、衆生に対する平等心、禅定による心の安定、すべてを包容して捨てない心、衆生済度の欲と精進と念力と智慧とについて減退することのないこと、解脱からあともどりしないこと、一切の解脱について明らかな知見を有し欠けることがないこと、衆生済度のため智慧の力で身・口・意の三業を現ずること、過去・未来・現在の一切のことを悉く知り尽してとどこおりのないこと、この十八のことを修行し、実践・実現します。


預流果・一来果・不還果・阿羅漢果の悟りに達します。
辟支仏の悟りに達します。


菩薩が、あらゆる生命に対し、それぞれに適した形で巧みに説法や教化を行うことができる智慧に達し実現します。


以上のような、あらゆる一切の善い行為、あらゆる一切の智慧を、のこりなくひとつに集めて平等におさめとっていて、なんら異なることがないのが、「聖なる智慧の五十の讃歌」経という真理の宝庫です。」


その時、スブーティは、釈尊の説かれたことを聞いて、釈尊に申し上げました。
「今説かれたこのお経は、一切のあらゆる善い行為、一切のあらゆる智慧をひとつに平等にあつめておさめとっているようで、非常に深く微妙です。その意味はとても深遠です。理解することが難しく、はっきり知ることが難しいものです。」


釈尊は、スブーティにおっしゃいました。


「そのとおりです、そのとおりです。あなたが言ったとおりです。
スブーティよ、もし功徳を積んでおらず、さまざまな悪い行為の友であって、鈍くて怠けもので、智慧に乏しく無知で、理解力が少なく知識も乏しく、初心者で浅い知識の人で、自分だけの救いを願っており、知恵が狭く劣っている人であれば、この「聖なる智慧の五十の讃歌」経は、理解しがたく、この道に入ることは難しく、信じて受け取ることもしないことでしょう。あなたたちは知るべきです。
 また、さらにスブーティよ、もし仏法を信じる在家の男女がいて、この「聖なる智慧の五十の讃歌」経の功徳を喜び、聴き受けて、読誦し、解説し広めて、過去・現在・未来のさまざまな仏陀たちや菩薩たちがこの「聖なる智慧の五十の讃歌」経を保ち実践したように、この「聖なる智慧の五十の讃歌」経を保ち実践するならば、それほど長く時間がかからずに、速やかに悟りを成就することでしょう。」


釈尊がこのお経を説き終ると、尊者・スブーティ、そしてさまざまな菩薩たち、神々、人々、阿修羅等々は皆、この釈尊のお説きになったことを聞いて大喜びし、信じ、受けとめて、そのとおりに実践しました。




原文
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20110624/1308870174