「心の塵についての教え」(「仏説法受塵経」 現代語私訳)
後漢の時代、パルティア(今のシリア・イラン)出身に三蔵法師・安世高が翻訳しました。
このように聴きました。ある時、釈尊は、コーサラー国の首都・シュラーヴァスティーにある祇園精舎に滞在しておられました。
釈尊は修行僧たちに告げました。
修行僧たちは教えを受け、釈尊に聴き従いました。
釈尊は修行僧たちにおっしゃられました。
「おおむね、人が何かをなす時は、心に塵のようなものがついて自ら心を汚してしまい、迷い惑い、愁い、落ち込んで、果てしもなく、本当の幸福の道を得ることができずにいるのを私は観察してきました。
たとえるならば、男性が女性の美しい姿を見たいと思うようなものです。
美しい女性に心惹かれる男性は、心がそのことに染められ、陶酔し、貪り、心が汚れ、惑い、執着し、そこに心が留まり、そうした感覚作用を生じています。
色っぽい女性の言葉に従って、久しく走り回って駆けずり回っては、いたずらに疲労困憊し苦しみを受けるのみです。
いつもその女性の声を聞きたいと思い、その香りをかぎたいと思い、キスをしたいと思い、肌に触れたいと思う。
そのために、久しく走り回って駈けずり回っては、苦しみを受けます。
上記のようなわけで、女性の色香や声、感触のために惑わされ執着すべきではありません。
まさにそのように自覚し観察しなさい。
また、修行僧たちよ、おおむね人は、なんらかの認識対象に触れるに際して、いつも塵のようなものを受け自ら心を汚し、迷い惑い、愁い、落ち込んで果てがありません。私はそのような人々が本当の幸福を得ることができないことを見てきました。
たとえていうならば、好色な女性が男性の姿を見たいと思うようなものです。
好色な女性は、心がそのことに染められ、陶酔し、貪り、心が汚れ、惑い、執着し、そこに心が留まり、そうした感覚作用を生じています。男性への愛欲のために、久しく走り回って駆けずり回っては、いたずらに疲労困憊し苦しみを受けるのみです。
いつもその男性の声を聞きたいと思い、その匂いを吸いたいと思い、キスをしたいと思い、肌に触れたいと思う。
そのために、久しく走り回って駈けずり回っては、苦しみを受けます。
上記のようなわけで、男性の性的魅力や声、感触のために惑わされ執着すべきではありません。
まさにそのように自覚し観察しなさい。」
釈尊がこの説法を終えると、皆は歓喜してその教えのとおりに実践しました。
仏説法受塵経