与謝野さんの「原発事故は神の仕業」発言について

先日、20日の記者会見で、与謝野さんが福島第一原発の事故を「神様の仕業としか説明できない」と述べたと報じられ、そのことについて多くの人が随分と与謝野さんに対して怒り、批判していた。


ブログでも実に多くの記事が書かれ、大半が与謝野さんに対する悪罵や憎悪や怒りの声のようである。


私は、実際にこの記者会見がどのようなものだったのか気にかかっていた。


内閣府のHPも、土日が挟んだせいか、なかなか20日金曜日の記者会見の情報がアップされていなかった。
私は今日やっと読んだが、ひょっとしたら昨日アップされていたのかもしれない。
いずれにしろ、一昨日まではまだ20日の分はアップされていなかった。


それで、内閣府のHPにアップされた記者会見の全体の内容を見ると、だいぶ新聞の配信の記事とは印象異なってくる。


まず、時事通信の記事を見てみよう。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201105/2011052000323


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与謝野馨経済財政担当相は20日の閣議後会見で、東京電力福島第1原発事故は「神様の仕業としか説明できない」と述べた。同原発津波対策に関しても「人間としては最高の知恵を働かせたと思っている」と語り、東電に事故の賠償責任を負わせるのは不当だとの考えを重ねて強調した。
 今回の原発事故をめぐっては、安全対策の不備や人災だとの指摘が国内外から出ている。「最高の人知」や「神による異常な自然現象」という論理で東電を徹底擁護する主張には、「原発は安全」と説明されてきた地元住民らからも批判が出そうだ。 
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とのことだ。



それに対して、内閣府HPを見れば、


http://www.cao.go.jp/minister/1101_k_yosano/kaiken/2011/0520kaiken.html


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(問)もう一点、そのスキームをめぐって、最近、枝野官房長官が貸し手側責任、銀行に債権放棄を迫る発言を繰り返しされていますけれども、こういう異例の事故が起きた中でのこういう経営問題についての、大臣の、その貸し手側の責任と併せて株主の責任について、お考えをお聞かせください。
(答)この福島の事故は誰が起こしたかといえば、やはり神様の仕業としか説明が出来ないことであるわけです。貸し手責任というのは、元来、金融の概念としては存在しないと私は考えています。貸し手責任が発生するような場合というのは、相手が返済能力がないということが分かっているにもかかわらず、そこに貸し込むと。例えばその典型は、数年前に起きたサブプライムローンのような、相手が家を買う能力がないと思いながら貸し込んでいくという、それは貸し手の責任というのはありますけれども、電力事業のように堅実な公益性を持った事業に必要なお金を貸すということに貸し手責任が発生するなどということは、理論上あり得ないことだと私は思います。
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というものである。


つまり、「貸し手責任」について述べている中での「神様」への言及である。
与謝野さんが言っているのは、「貸し手責任」はサブプライムローンと異なり、今回のケースでは成り立たないのではないかということだけである。


全体の記者会見の内容を見ても、要するに、与謝野さんが言っているのは、東電に責任がないということではなく、また神様の仕業だから誰にも責任がない、ということではない。


東電に無限の責任を負わせることは法律上はできないということ。
そして、国に責任があるということ。
さらに、サブプライムローンと異なり、「貸し手責任」は理論上今回は成り立たないということ。


ただ、それだけのことだ。


与謝野さんの発言を、神様を持ち出して誰にも責任がないとする無責任な意見だと読むことは、片言隻句をニュースから取り出して受けとめた場合の単なる誤解ではないだろうか。


むしろ、「国の責任というのは当然発生するということが自然な解釈だと思っています。」と明言しているのだから、責任を曖昧にしたり拡散させるのではなく、真正面から国が責任を背負うことを表明した発言だと思う。


「福島は、元々10メートルの高台にあって、なおかつ7〜8メートルの津波用のフェンスがあって、それを乗り越えるような津波は発生しないという想定をたてたのは、人間の知恵としては最高の知恵を働かせたのだろうと私は思っていますが、その人間の予想とか知恵をはるかに超える津波が発生したというのは神様の仕業と言ったのは、自然現象であって、あたかも原子力事業者がその事故の発生原因までも責任を負わなければいけないというような言動がなされているのは、私はおかしなことだと思っております。」


という発言も、東電のみに責任を帰するのではなく、国に責任があるという与謝野さんの意志の現れであり、別に神様を持ち出して関係者すべての責任を免除しているわけではない。


さらに付け加えて言えば、与謝野さんは電力自由化に慎重な姿勢のため、枝野さんと対比的に批判される場合も多いようである。

しかし、東電の賠償責任と電力自由化の問題について、与謝野さんが慎重なのは、現実的な判断があるのではないかと思う。


というのは、もし電力自由化を行えば、東電の体力は低下し、今回の震災に関する損失や賠償を負えなくなる。
もし東電に損失や賠償を東電を維持したまま負わせるならば、仮に国がいくばくか支援するとしても、独占か、あるいはそれに類した形での強力な経営体制がなければ、とてもそれらを維持できないだろう。


与謝野さんが電力自由化の問題や東電の賠償の問題で慎重な姿勢を今回の記者会見で見せているのは、その問題を十分に自覚しているからではないか。


おそらく、与謝野さんは今の世にはあまり受けの良くない、パフォーマンスも下手だし、耳に苦いことしか言わず、受けることは言わずに慎重な事や法律上の原則から言えることしか言わない政治家だと思う。


菅総理を、枝野さんのような比較的若くて清新な政治家と、与謝野さんのような現実的で長年の経験や慎慮を持つ政治家と、両方のタイプの政治家が補佐するのは、国家にとって必要なことだと思う。


ニュースの片言隻句のみ載せた報道から、よくきちんとその発言の全体や真意を見ずに、いたずらに瞋恚を引き起こし悪罵を重ねることは、国家社会全体のためにも、各自の人生の心のありかたにとっても、決してプラスにはならずマイナスにしかならないのではなかろうか。