神義論

■私も「なぜ」と自問…震災体験少女にローマ法王
(読売新聞 - 04月22日 22:21)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110422-OYT1T01000.htm?from=y24h


神義論という、昔から多くの人から出されてきた問題がある。

神が全能でかつ善であるならば、この世に災害や悪があることの説明がつかない。

もし全知全能であるならば、悪や災害が起こる以上、善を意志しておらず、むしろ悪を意志していることになる。

もし善であるならば、悪や災害が起こることを防げないので、全知全能ではないということになる。

いずれにしろ、全知全能で慈悲深い善なる神はいないということになる。

この神義論は、古来から多くの哲学者や神学者を悩ませてきたようだ。

この神義論の議論が妥当かどうかは私にはよくわからない。

昔から、こうした議論に対して出される反駁としては、人間は有限で相対的な存在なので、無限で絶対的な神の思し召しはわからない、ということがよく言われる。
そう言われてみれば、そのような気もする。

いずれにしても、懐疑を突き詰めれば無神論になるか、そうでないとすれば、わかったようなわからないようなところで議論を打ち切るしかないのだろう。

ただ、ひとつ言えることは、神がいようといまいと、人間のことは人間が責任を持って、少しでもマシな方向に選択して努力していかなければ、人の世の悲惨さはどうにもならないということだ。

祈ったところで、放射能の被害はなくなるわけではないし、原発も減るわけでもないし、電力が供給されるわけでもない。

「なぜ?」と問うとすれば、震災については地球の地殻変動としか、そして放射能については長年の原子力政策のありかたについて問うしかない。

地球の地殻変動については、人間の側がなぜと問うても仕方ないが、原子力行政については人間の営為だから問うことはできる。



「この世の諸事情は運命と神によってうまく統べられているのであって、人の知恵では思うようにできず、改善することさえできないという意見を、どれほど多くの人が抱いてきたか、また今なお抱いているのか、ということは私にもわかっています。このせいで、私たちは諸事にわたって労力を費やす必要はなく、偶然に任せておけばよいと信じているのです。当代では、人間には推し量ることのできないような大きな変化を、日々目の当りにし、これからも目撃するでしょうから、この意見は一層信憑性を帯びています。ときにこのことに思いを巡らせると、私も幾分かはそうした意見に傾むきます。そうは言っても、私たちの自由意志が消えないかぎりは、運命は私たちの行動の半分の決定者であって、残り半分ないしおそらく半分近くは、私たちの裁量に任されているというのが、真実なのでしょう。

運命を荒れ狂う川に例えてみましょう。洪水が起ると、川は平野に氾濫し、木々や建物を押し流し、土砂をある場所から別の場所へと運び去ります。それを前にしてはだれもが逃げ去り、あらゆるものが、それに抗す術もなく、その猛威の被害を受けるのです。その本性はこうしたものですが、だからといって、天気が良いときに、防護壁や遮蔽物で備えておき、こうして、再び増水したら、水を運河に流し、その力を無制限で危険なものでないようにしなくていい、ということにはならないでしょう。運命も同じことで、それに抵抗する肚が固まっていないところで、その力を発揮し、それを妨げるよう遮蔽物や防壁が築かれていないとわかると、そちらへと力を向けるものなのです。

マキャヴェリ君主論
参照
http://page.freett.com/rionag/machiavelli/prince.html


これからどのように「運命」への防護壁や遮蔽物を築くか、またそれらを強化して破壊させないようにするか。

その工夫を行うしか、結局、できることはないのかもしれない。