日向美則 『我等は生ける弥陀を信ず』 抜粋メモ


読者は今「正法観」という耳なれぬ言葉を前にしている。しかし、この言葉は重要な意義を持つ、それは「正法観」を了得するか否かによって人の運命が一変するからである。
天地法界は実に一人の人間に、この「正法観」の目覚めへ導かんと一切の縁を動員して働きかけていると言える。人は如来の愛に包囲されている。しかし気づく人は稀である。
如来の愛は「正法観」の目覚めを人に与え、抜苦与楽の境涯に導かんとせられつつある。しかし気づく人は稀である。人は各々顛倒心即ち逆観を以ってものの実と思いあらゆるものに執着し自ら苦涯を現出せしめている。

―もし私が「正法観」の目覚めを得ていたなら、念仏を修しながらあれ程の艱難辛苦を味わうことはなかったであろう。しかし反面より言えば念仏を修していたればこそ他生を経ず、今生において「正法観」の成就へ啓示を通して導かれたとも言える。
それでは「正法観」とは何か。この命題は第四篇を通じて解説されるのであるが、一口に云えば法界の心を知れと言うことである。
この天地法界は恵みに満ち恩寵に溢れていると言われる。それだけでは観念的に理解したものである。更に深い味わいの世界がある。この天地法界があなたの一挙手一投足によって影響される所を見なければならぬ。あなたの心の持ち様で法界が忽ち一変する所を見なければならぬ。天地一切があなたに好意的に囁きかけ豊饒なる贈り物を持参してあなた一人にやって来ていることに気づかなければならぬ。法界はあなたに愛を以って迫っている。しかし、人はこの愛の包囲を観念的に了解しても、自ら体得することは稀である。

「正法観」は単なる観法ではない。自ら体験を通じて知られる。
その端的を次に記そう。(以下、蚊の話。略)
心ひとつが変われば一切が変わるのである。

「正法観」とは法界の心を知る事である。
(睡眠、風邪、の事例)


一切のあなたに起こる縁はあなたに好意的である。いかに善根功徳を修しても「正法観」に住していないならば法界は余り好ましくない贈り物を持って、蚊や蜂のように行者を刺しにやっても来るであろう。逆観はしばしば不幸や災厄を招く。しかし、それも「正法観」への導き、その手段として如来の恩寵なのである。
(以下略)


心を変えよ。真実を見よ。愛の包囲と知れ。あなたの最も嫌なものがあなたに訪れて来た時、それを歓迎せよ。来るものは皆如来の行為と愛を以っての贈り物なのだ。災難という贈り物をあなたは嫌う。その嫌う心を逆観と言う。この嫌う心の根がある限り皮肉にもあなたの最も嫌うところのものが贈り物に選ばれる。その選びもまた如来の恩寵である。
如来はあなたの逆観を修正し「正法観」に帰せしめようとあなたに愛をそそがれている。一切は如来の所与である。一切に合掌されるときあなたは「正法観」に入門する。
最も良いものは最も近くにある。近くに用意されている。最も良いものがあなたという人格の求心力に引かれてやってきている。しかるに人は折角法界の行為を無視し、はるばる遠方まで出かけてゆき苦労してしかもつまらぬものを僅かに手に入れる。この繰り返しである。自我は常に人を盲目とし宝珠を塵埃と看做し、瓦礫を瓔珞と見せる。これらの喩えは如来の啓示である。

法界は祈りそのものである。法界があなた一人の幸福を祈っている。あなたの永遠なる抜苦与楽を念じている。この法界の心を知ることが正法観である。
「正法観」に目覚めたならばその時からあなたは物心ともに繁栄するだろう。
如来の讃嘆が現身に「証」される。
あなたは恵みの法雨を受けて、豊饒な慈愛と感謝の世界に復活する。解脱の風光である。