醒めた精神と冷えた精神

(2010年 4月記す)


今日、ヒュームのエッセイを久しぶりに読み直していて、あらためてその「醒めた」ところに感嘆させられた。

単純な戦争反対というわけではないが、戦争の熱狂には距離をとって、不必要な戦争やその結果としての国費の濫費に鋭い批判を加えている。

こういう醒めた精神みたいなものが、いつの世にも本当は一番大事なものかもしれない。

日本だと、そういえば、福沢諭吉などはわりと醒めた精神の持ち主だったような気がする。

醒めた精神というのは、おそらく、単なる冷えた精神とは違うのだと思う。
冷えた精神、あるいはしらけた心というのは、往々にして無関心や無責任になりがちである。
それに対して、醒めた精神というのは、熱狂や妄想と距離をとり、ものごとの因果関係や根拠を精確に見極める、知的誠実さと良心に裏打ちされたものなのだと思う。

そういえば、ちょっとそれとは違うのかもしれないが、今日たまたま七里恒順の語録を読み返していたら、「信心とは夢から醒めたこと」という表現の箇所があった。
浄土真宗の信心というのも、熱狂や妄想とは距離を持った、むしろそうした熱狂や妄想や無明から離れて醒めたものが本当のものなのだろう。
また、なんら醒めることがなく、無自覚・無意識のものが御信心だと勘違いして、はっきり夢から醒めることが信心だと語る人にいちゃもんをつける者がいるとしたら、それは七里師ら先師にも背くことだろう。

政治にしろ、宗教にしろ、難しいのは夢や妄想や熱狂から醒めることであり、距離をとることなのかもしれない。
因果関係や論拠を精確に見極めることに己のあらん限りの誠実さと良心を傾けるほどの人でなければ、およそ夢から醒めることはあるまいし、群盲象を撫でるの類から抜け出すことはできないのだろう。