善導大師の諸著作を最近読み直していて感じたことなのだけれど、弁栄上人はまぐれもなく善導大師の教えを正統に継承していると思う。
以前、弁栄上人の諸著作を読んだ時は、すばらしいと感じる一方で、かなり伝統からはずれていて、弁栄上人独自の要素が多いのかなあ、近代に応じた浄土教と言うべきなのかなあと思っていた部分があった。
しかし、善導大師の諸著作をきちんと読めば、むしろ弁栄上人こそ正統に善導大師の教えをよく受け継ぎ、発揮していると思う。
善導大師の「観念法門」では、明確に観仏・見仏が書かれている。
しかし、この要素は、長い間日本の浄土教では無視されがちな傾向があった気がする。
この点を明確に再び宣揚したのが弁栄上人だったと思う。
また、善導大師の諸著作を読むと、いかに倫理的に潔癖で清潔な教えかよくわかり、その点で悪を避けて善を勧める弁栄上人の教えは、正統に善導大師の精神を継承したものだと思う。
もちろん、法然上人や親鸞聖人は偉大だと思うし、究極的には善導大師の信心と同じだと思う。
しかし、教えの際の説き方や、力点の置き方において、必ずしも善導大師のすべての要素が日本の浄土教では重視されなかった傾向があるとは思う。
そもそも、法然上人御自身は「偏依善導一師」と明確におっしゃっていたのに、あまりその後の日本の浄土教がこの精神をきちんと継承したとは思われない。
しばらく、ちょっとずつ、善導大師と弁栄上人の諸著作を読み直してみようかなあと思う。