自然法爾と石川三四郎

(2009年11月記す)

石川三四郎の文章を読んでいると、ときどき「自然法爾」という言葉が出てくる。
(「自由と必然」など)

自然法爾」は、言うまでもなく親鸞聖人が用いた言葉である。

石川三四郎がどの程度、親鸞聖人の著作を読んでいたかはよくわからない。
仏教の経典は相当に読み込んでいるようで、維摩経などの引用はあるけれど、どれぐらい浄土三部経親鸞聖人の著作は読み込んでいたかはよくわからない。

ただ、おそらくは、この「自然法爾」という言葉と共鳴し通底するものがあると思ったから、石川は好んで用いたのだろう。
あんまり表には出てこないけれど、意外と親鸞聖人の本も読み込んでいたのかもしれない。

そういえば、ふと思ったことがある。
石川が強調する「美的本能」や「美的衝動」というものを最もよく満たす仏教の流れというのは浄土教ではなかろうかと。

仏教というのは、基本的にあんまり美的なところはなく、とかく人の死体を観察したり不浄を観察して煩悩を根絶するなど、智慧の目から見ればそれが正しいのだろうけれど、あんまり美的ものではない。
また、大乗経典の、特に般若経典など、否定形ばっかりでよくわからんというものも多い。

それに対して浄土三部経は、美的な象徴表現に満ちていて、人の美的本能や美的衝動をよく満足させる文学的内容だと思う。
きっと言語を絶した涅槃などといっても凡夫にはよくわからないので、美的欲求の強い衆生にあわせて、浄土というものもあのような形で表現されるようになったのかもしれない。

浄土の理想を部分的にでも現実社会に求めようとするのが、アナキズムというものなのかもしれない。