京都旅行記 その5 大谷本廟・西本願寺ほか

京都旅行記 その5 大谷本廟西本願寺ほか


清水寺をあとにして、坂道を下りながら、考えた。
はて、どうやって線香を買おうか。


西本願寺の目の前に薫玉堂という老舗の御線香のお店があるのだが、そこの御線香はとても香りが良く、かつて買った分のストックがもうなくなっていたので、今回はそこでたくさん補充して帰りたいと思っていた。


話は前後するが、この旅行記に書いている、私が泉涌寺清水寺を歩いた日の前の日、私は西本願寺を訪れた。
しかし、朝が早すぎて、まだ薫玉堂があいておらず、御線香を買うことができなかった。


さらにその前の日に、今回の京都訪問の理由だった大きな用事を無事に終えていたとはいえ、その日も朝から夕方まで用事があった。
だが、用事が始まるまで朝に少し時間があったので、早朝に起きてホテルから近い西本願寺まで歩いていった。


西本願寺は、一年半前、昨年も訪れた。
うちの宗旨は浄土真宗なので、西本願寺は御本山ということになる。
今回も無事にお参りできて良かった。


本堂の御本尊の阿弥陀様にお参りすると、自分がこうやって今、念仏と縁があって、この御本堂の御本尊前で念仏を称える背後には、はかりしれない御手回しがあるからだということをあらためて感じた。
父方と母方の両方の御先祖様が、ずっと浄土真宗で念仏を相続してきてくださったから、またいろんな日本や中国やインドの方々が仏教を伝えてきてくださったから、いまここで自分が念仏しているのだなぁということを、あらためて理屈を超えて深く感じた。


本堂から廊下をつたって御影堂に行くと、ちょうど帰敬式があっていた。
オレンジ色の衣を着た、たぶん私よりちょっと年上ぐらいのまだ若い、しかしとても姿勢が良くて声が朗々として只者ではないっぽい方が、お年寄りの御門徒さんたちに御剃刀をし、阿弥陀如来のいのちと光に包まれながら、あらゆることが御縁であったといただけるような、そうした人生を念仏を申しながら歩んでいくということについて、短いが味わい深い御法話をされていた。


その帰敬式が終わったあと、後片付けをしている他の若いお坊さんに尋ねると、あの帰敬式で御剃刀をしていた方は、御門主様の代理で、やはり御門主に近い血筋の方で、本山のお経の時に調声をする方だと言っていた。
さすが、なんというか、普通と違うオーラがあった。
ああいうオーラというのは、いったいどこから出てくるんだろう。
伝統の力だろうか。


自分自身が帰敬式を受けたわけではないけれど、すごい瞬間に立ち会えた気がした。
いつか、私も帰敬式を受けたいものだと思う。


それから、本願寺の唐門を見て、用事のためにもう戻らざるを得なかったけれど、道の途中、東本願寺の堀の蓮の花がとてもきれいだった。


京都タワーにもその日の朝に登ったのだけれど、なかなか見晴らしがよく、西本願寺もはっきりとよく見えた。


それが、前日のことで、そういうわけで、目当ての御線香がまだ買えずにいた。
だが、地図を見れば、清水寺のすぐ近くに、大谷本廟がある。
大谷本廟親鸞聖人の御墓所があるところで、昨年も訪れていたのだが、たしかあそこに薫玉堂の御線香もあったはずと思い、清水寺から坂道を降りながら、一路大谷本廟に向かうことにした。


清水寺から大谷本廟に向かう下り坂の道を歩いていると、安祥院というお寺があり、そこに梅田雲浜の墓があると書いてあった。
気になったので、立ち寄ることにした。


お寺の方に尋ねると、正確には遺髪がおさめてあるだけのお墓だそうだが、親切に場所も教えてくださった。
小さなお墓だった。
梅田雲浜は、安政の大獄で処刑された志士としてぐらいしか、私はあまり詳しいことは知らない。
しかし、御墓にお参りして、なんというか、高い志と深い国への愛に生きた人だったんだろうなぁと、なんとなく感じた気がした。

昨年、西本願寺大谷本廟を訪れた時に、京都の霊山護国神社にある維新の志士たちのお墓にもお参りした。
坂本龍馬木戸孝允や、一般的にはあまり有名ではない無数の志士たちのお墓があった。
梅田雲浜や、それらの志士たちの、深い思いや高い志や国への愛や献身があったからこそ、今の日本があるのだろう。
家に帰ったら、梅田雲浜についてきちんと調べようと思った。


安詳院にはお地蔵様が祀られていて、その御地蔵様にお参りに来たのだろうか、どういうわけか若い女の子が三人、ひとりは和服で、ひとりはゴスロリファッションで、もうひとりは普通の格好で、お寺の前でしきりに写真をとっていた。
よくわからないが、何かオタク系女子にとってこのお寺は格別な思い入れがある場所なのだろうか…。
こういう平和で豊かな世が今あるのも、維新の志士たちのおかげなのかもしれない。


坂道を降りていくと、ついに大谷本廟があった。
まず本堂にお参りして念仏を称えてから、明著堂に向かった。
明著堂は親鸞聖人の御墓のことで、昨年もお参りしたのだけれど、今回は昨年は見た記憶がない、親鸞聖人の御絵像が見えた。
お参りして、念仏を称えていると、私の妄想かもしれないけれど、脳裏に、


阿弥陀様からいただいたいのちを、いのちいっぱい生きればいい。」


親鸞聖人がおっしゃってくださっているような気がした。


それから、受付や土産物屋がある一角に向かい、見てみると、あったあった!
御目当ての御線香がちゃんと売ってあるのを見つけて、とてもうれしく、三箱御線香を買って帰ることにした。
これで当分は持つだろう。
毎日の仏壇での読経に、私も母もせっせと線香を使うので、けっこうすぐになくなってしまう。
どうも近所のスーパーの線香では香りがいまいちなので、やっぱり良い御線香を日々に使いたいものだと思う。


お店の人に御線香を包んでもらう間に、ここから京都駅に向かうバス停はどこにあるかと尋ねると、大谷本廟から西本願寺に向かう無料のバスが京都駅を経由するので言っていただいたらそこで降ろします、間もなくバスの時間です、というので、ラッキーと思い、地下にあるバス駐車場に向かう。
間も無くバスが来たので、無料でラクに京都駅まで運んでもらうことができた。
まさに、難行陸路苦ではない、易行水道楽の如し。


ちょうど良い時間に京都駅に着き、無事に新幹線に乗ってラクに帰ることができた。


思えば、神仏の大きな御加護を日々に感じてはいるけれど、あらためて深く感じる京都の旅であった。
あらためて日本の文化や伝統の深さや素晴らしさや豊かさに触れ、貴重なひとときを過ごすことができた。
泉涌寺東福寺六波羅蜜寺清水寺大谷本廟と一日で回ったけれど、どれもあたかも、一ヶ所で数日過ごすような、濃密な時を過ごすことができた気がする。
人生というのは長さではなく深さであり、人生は旅のようなものだとよく言われるが、そうであれば、旅もまた長さではなく深さであろうか。
より深く味わうためには、旅をきっかけに触れたことや興味を持ったことを、また折に触れて学び直し、調べ直すことが大事なのかもしれない。


たぶん、人間というのは、縦軸の時間の、長い伝統や歴史と、横軸の同時代の、いろんな人々の、両方のおかげで生きているのだろう。
日ごろ、日常生活に紛れていると、ついついそのことを忘れがちだが、京都というのは、いかに我々が深い伝統の中で生かされているか、過去や同時代のいろんな人のおかげで共に生きているか、そんなことにあらためて思いを致される、本当に貴重な場所だと、今回あらためて思った。


また来年も、再来年も、できれば年に一度ぐらい、京都を訪れ、御本山にお参りしつつ、まだ行ったことがない場所を訪れてみたいものである。