西路を指授せしかども

今日、親鸞聖人の和讃を読んでいたら、


「西路を指授せしかども
自障障他せしほどに
曠劫以来もいたづらに
むなしくこそはすぎにけれ」


という一首が、とても心に響いた。


試みに現代語訳するならば、


「救われていく道をすでに教え示し与えられているのに、
自分でその道を自分に妨げ隠し、他人に対しても妨げてきた。
そのため、はかりしれない過去から、無駄に、
むなしく、ずっと多くの時間を費やしてきたのだった。」


といった意味だろう。


救いの道がないわけではない。
すでに与えられているのに、自分で覆い隠し、妨げ、他人にも妨げている。


ということだろう。


これはかなり、厳しい言葉だけれど、自分の人生にあてはめてみると、よくあてはまる気がする。


いや、本当の意味では、この言葉の厳しさを、自分はいまだに十分には受けとめれていない。


ここでいう「西路」は、もちろん浄土往生のための道、つまり浄土教のことなんだろうけれど、このすでに与えられている道というのは、浄土教に限らず、自分の人生のいろんなことにあてはまる気がする。


すでに与えられている道を、なんと自分で覆いかくし、妨げて、他にそれてきたことだろう。


問題というのは、他にではなく、「自障障他」こそ、本当はある。
そのことを、この御和讃は教えてくれている。


ただ、凡夫というのは、悲しいことに、自分でそうしながら、そのことがわからない。
そうであればこそ、繰り返し仏法を聴き、仏の光明に照らされていくことが必要なのだろう。