ドキュメンタリ宣言 なぜいま若者たちは〜カメラが見た右翼と左翼〜

昨年(2009年)の八月頃、ドキュメンタリ宣言という報道番組で、左翼と右翼の特集があっていた。

http://www.tv-asahi.co.jp/d-sengen/contents/diary/0029/index.html

(以下はその番組を見た時の感想)



”左翼”への特集としては、法政大学における中核派の、去年ぐらいにあった大規模な抗議デモの様子が映っており、二十歳の女性の中核派の活動家へのインタビューの様子や、前進社の内部の様子が映っていた。

”右翼”への特集としては、39歳の右翼団体の塾長の人と、19歳の右翼団体に入って四年ぐらいになるという男性へのインタビューがあっていた。

番組を見ていて思ったのは、左翼の人も右翼の人も、根は悪い人ではなさそうだということだった。
どちらかといえば、わりと純粋な人たちのように思えた。

中核派の前進社の内部は、大勢の若者や中高年の人たちが共同生活を送っている様子が映っていて、なんだか梁山泊みたいな感じもした。
その人々の意気軒昂さは、いまどき珍しいようにも思えた。

右翼団体も、経費を節約するために塾長の人が自らミシンで幟をつくったりしている様子が映っていて、なんというか涙ぐましいというかほほえましいというか、うまく言えないがしんみりしたものを若干感じた。

この時代に、左翼にしろ右翼にしろ、そういう活動にのめりこむ人は、ある意味奇特な人なのだろうと思う。

とはいえ、信念を持つことは美しいとしても、独善に過ぎると困ったものとも思えた。

中核派の人々が「暴力革命」を主張しているのには、どうにも首をかしげさせられた。
社会正義を主張し、資本主義の害毒に批判精神を持つこと自体は立派な部分もあると思うけれど、自分の理念や主張を暴力で人に押し付けることは、道徳上も法律上も許されないことだろう。

また、右翼の人々が、番組の中で、神棚と御真影のあるのが本来の日本人の家庭のあり方だ、とか、クリスマスなんて祝うな、とか、皇室に反対する人間は生きている資格がない、などと主張しているのを見ると、自分自身がそうするのはいいけれど、人にそれを押し付けるべきではなかろうと思えた。
世の中には仏教徒キリスト教徒も多いのだから。

たぶん、社会の中には一定数、必ず極左や極右のような集団や人々が常に存在するし、いるのだろうと思う。
また、彼らの声にそれなりに耳を傾けることも大事なのだろうと思う。

ただ、法律に違反した場合は断固として取り締まらなければならないし、彼らに対して、あまり独善的にならず、法の遵守と他の人間の自由の尊重の精神を常に忘れないようにして欲しいと思えた。

ただ、右翼の19歳の少年が、子どもの時に野村秋介の拳銃自殺の報道に触れて衝撃を受けて、それから右翼になった、と述べていたのを聴いて、命を賭けた信念に心が動かされることは、私にもわかるような気がした。

彼らを一概に阿呆だとか時代遅れだとか言う気には、私にはなれなかった。

番組の最後に、ゲストの人が、左翼や右翼をナンセンスと笑う一般の学生や若者たちが、では自分たちも居場所のなさや閉塞感を抱えていないのかというと、大半は似たような問題を抱えているのではないか、ということを言っていて、それはそうだと思った。

なかなか面白い番組だった。

ただ、自分の居場所探しや仲間作りや生きる意味のために、革命や天皇を持ち出すのはどうかなあと、やっぱり私には思える。
自分の生きる意味や居場所ぐらい、大きなものに頼らずに等身大で自分自身で見つければいいし、法律を遵守し道徳を守ったうえで、群れをなさなさいで自分の身の周りで何とかすればいいんじゃないかと思う。

世の中はそうそう急には変わらないし、一挙に暴力革命で良くなるなんてことはなくて、もっと地道な一人一人の身の周りでの努力や精進の集積ではじめてちっとはマシになっていくものだと思う。
それに、議会政治や普通選挙言論の自由がある以上は、非暴力のやり方で社会の変革を求めるべきではないかと思う。
天皇・皇室のあり方も、声高に他の人に押し付けたり、天皇制を否定する人々に生きる資格がないなどと怒鳴るやり方ではなくて、和歌や文芸の愛好など、地道な品の良いやり方でやっていった方が、皇室の伝統や皇室の人々自体の意思にも沿うのではないかと思われる。

でも、ああいう団体や運動の中に、迷いなく飛び込んで、利害打算を度外視して信念を持って運動をやっている人というのは、ある意味すごいなあと思う。
結局私は、その点は、右にもいかれず、左にもいかれず、革命も天皇もさほど信じることのできない、中途半端なノンポリなんだろうなあ。。
ただ、もしやるならば、群れをなさずに一人ででも、革命のためでも天皇のためでもなく、今この時代のこの社会に一緒に暮らし住む人々のために、何かをやりたいなあと思う。