石川三四郎のマルクス批判

石川三四郎の「歴史哲学序説」を読んでたら、マルクス弁証法や進歩的な歴史観をいろいろ批判してあって面白かった。

石川三四郎がなぜ唯物弁証法を批判するかというと、

一、生命の双発的・創造的発展を無視しているから
ニ、人間における幻影・錯覚の要素の重要性を無視しているから
三、生命の保守的原理を無視しているから

の三つが主な理由らしい。

そもそも、石川三四郎によれば、生命は多元的なものであり、かつ「美」を求めて生きるものらしい。

しかるに、弁証法唯物論だと、そうした要素が無視され、あたかも自己運動で必然的に歴史が進歩するように言われる。

石川が言うには、歴史は唯物弁証法のようなものではなく、さまざまな要素が相互に影響しあい、多元的に・因縁果的に発展するものらしい。

また、個別具体的なものから離れて歴史が存在したり進歩したりするなどということはなく、多元的な個別具体的な存在が、自由に、偶然に、自分を創造的に表現して歴史に影響を与えるのが、歴史というものだそうな。

なるほどな〜っと思った。

私も、マルクスの、剰余価値の搾取に関する分析や、資本主義の害毒への批判には深く胸打たれたり共感しつつも、いまいちマルクス主義がピンと来なかったのは、唯物弁証法という考え方への違和感だったと思う。
私も、歴史というのは、個別具体的な人や要素を離れて、必然的に進歩するなんてことはないし、退歩や進歩を繰り返し、それぞれの時代はそれぞれの時代の表現や目的を持つものだと思う。
あんまり今までうまく表現できなかったけれど、石川三四郎マルクス歴史観批判は、とても面白かったし、とても重要な手がかりになるような気がした。

ただ、難しいなあと思うのは、石川三四郎も部分的にはとても良いことを言っているのだけれど、その政党無視の態度は、読んでてかなり疑問な気もする。
石川三四郎は、普通選挙運動や政党に対して極めて批判的で、そんなものはちっとも世の中を良くしないという考え方で、堺利彦社会党に入るように誘っても応じなかったらしい。
戦前の政党政治の現実を考えれば、石川三四郎の醒めた見方も正鵠を射ている部分もあったとは思うのが、そうは言っても実際に政党や議会
を通じてしか世の中は変わらない部分も多いのだから、議会や政党を無視する姿勢には、気持ちはわからなくもないとしても、いささか疑問が生じる。

とはいえ、やっぱり面白い思想家だと思う。
また、マルクスを批判・否定する思想家が、往々にして単なる権力者への阿諛追従に陥るのとまったく異なり、「土民」の立場から一貫して権力への鋭い批判と抵抗を試み、幻影錯覚から自由なあり方を求め続けたあり方は、きわめて興味深いと思う。

なかなかうまく整理しづらい思想家だけれど、レッテル張りを離れて虚心坦懐に読むと、いろんなインスピレーションの宝庫のような思想家ではないかという気がする。