師岡佑行 「西光万吉」

以前、師岡佑行「西光万吉」(清水書院)という本を読んだ。

http://www.amazon.co.jp/%E8%A5%BF%E5%85%89%E4%B8%87%E5%90%89-Century-Books%E2%80%95%E4%BA%BA%E3%81%A8%E6%80%9D%E6%83%B3-%E5%B8%AB%E5%B2%A1-%E4%BD%91%E8%A1%8C/dp/4389411101


西光万吉は、名前ぐらいは知っていたけれど、詳しいことは何も知らなかったので、とても興味深く、読んでいていろんなことを考えさせられた。
毀誉褒貶は今もっていろいろあるんだろうけれど、とても悲劇的な人だし、本当に真っ正直な、一点も私心のない立派な人だったんだろうなあと思った。

西光万吉は、大正から昭和にかけて活躍した人物。
浄土真宗の僧侶だったが、部落解放運動に努力し、水平社の設立に大きく関わった。
水平社の「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という有名な創立宣言も、西光が二十七歳の時に一気に書き上げたものだったという

マルクス主義に共鳴し、当時非合法だった共産党に加入。
しかし、検挙されて獄中で転向。
釈放後は、共産党から離れて、「高次的タカマノハラ」という思想を唱え、天皇のもとでの平等な社会を右翼の陣営に参加しながら主張。
日中戦争大東亜戦争にも賛成の論陣を張る。

しかし、敗戦によって大きな衝撃を受け、自殺をはかるも未遂に終わり、戦後は「和栄政策」という独特な平和主義を、憲法九条の堅持と終戦詔勅の精神の堅持を主張しながら説いたとのこと。

これらの経歴を見るだけで、右翼からはアカと呼ばれ、左翼からはファッショや転向者と呼ばれたというのもよくわかるし、とても独特な軌跡を描いた人だったのだなあと思う。

ただ、この本を読んで、単純に断罪したり批判したりできる人ではなく、当時の状況の中で精一杯自分の理想を追い求めた人だったんだなあというのをひしひしと感じた。

獄中で転向して「高次的タカマノハラ」という、ある種の天皇主義を唱えるようになったことを、裏切りや無節操と今日の目から批判することはたやすいだろう。
しかし、この本を読むと、共産党が弾圧で壊滅していた戦前戦中の状況下で、西光が一生懸命、搾取のない平等な社会を「高次的タカマノハラ」の名のもとで夢みて、実際に瓦職人のストライキや待遇改善のために大いに努力したり、東条内閣の不徹底ぶりを批判して、天皇の名のもとでの“社会主義“を目指していたことがうかがわれる。

そうしたいわゆる“天皇社会主義“が、うさんくさいとか矛盾したものだと、今日の見地から批判するのはたやすい。
しかし、治安維持法の下で共産主義運動や労働運動そのものが完全に壊滅逼塞していた状況の中では、天皇の権威を受け入れた上で、その権威を利用して労働者の待遇の改善や資本主義への批判をしようとするのは、本人たちにはぎりぎりの選択だったのかもしれない。
今の見地からは単純には責められないものだったようにも思う。

ただ、そうした「高次的タカマノハラ」という一種の天皇社会主義は、本人の意図とは別に、あの大戦や総動員体制を結局支持して遂行する側に回ってしまったことは否めない。

天皇の権威によって搾取のない平等な世の中を軍部の国家統制と協力しながら目指そうとした「高次的タカマノハラ」という西光の戦時中の思想や運動は、戦時中においてその思想からすれば不徹底な軍部や官僚を批判していたにもかかわらず、左派からは裏切り者にしか映らず、また結果として総動員体制や軍国主義に加担してしまい、敗戦によってすべてが崩れ去ったという点で、幾重にも悲劇的だったと思う。

西光の行動や思想が、もし失敗だったとするならば、その原因は何だったのだろう。
そのことを考えると、資本主義や利己主義への批判が、どんなに良い動機から発していても、なかなか難しいものであり、東洋思想や天皇主義をもってその問題の解決に向かおうとすると、一歩間違うととんでもない隘路にはまり込むということを、何よりも深く身をもって教えているようにも思う。

損な役回りを進んで引き受けた、菩薩のような人だったのかもしれない。

敗戦後西光は自殺を試み、知人にあずけていたピストルをとりに行き、二回こめかみに銃をあてて引き金を引いたという。
しかし、二回とも弾が発射されず、自殺を思いとどまったそうだ。
西光が亡くなった後、その友人がはじめて西光の妻に、実は西光さんは死なせてはならぬ人だと思い、銃に細工をして弾が出ないようにしていた、とはじめて明かしたらしい。
そのエピソードも、なんだかとても胸を打たれた。

多くの人が、敗戦後、自分の責任については口をつぐむか正当化をはかるなかで、西光はまっすぐに自己の責任を問い、イギリスという最大の帝国主義国と戦わなければならないという思いが強すぎたことが「自国の悪業に対する良心のマヒ」をもたらしてしまったと、ごまかしのない慚愧の文章を綴ったそうだ。

戦後は、昭和四十五年に亡くなるまで、常に「和栄政策」を主張していたらしい。
「和栄政策」とは、不戦憲法にのっとって世界を不戦世界にするために、「和栄隊」という文化や技術協力を世界のあちこちで行う部隊を創設し、その政策を進めることらしい。
また、一年以上勤務した労働者が株式を保有して会社を協同管理する「和栄経済」も唱えていたらしい。

そして、日本の平和憲法支持の陣営の主張が、しばしば自国の安逸や利益ばかりの主張になりがちなことを批判したという。
本当に不戦国家をつくり不戦世界を築くためには、進んで多くの負担や犠牲に耐える精神を持たねばならず、自国の福祉や安逸のみを願う安易な平和主義は本当の憲法九条の維持発展の原動力たりえないと主張したらしい。

「和栄隊」や「和栄政策」というのは、今から見てもかなり面白い、豊かな内容を含んでいるのではないかとも思われる。

こうしたことを見てくると、左派だったのか右派だったのか、杓子定規なものの見方では本当に判然としない。
だが、西光万吉の思想と軌跡は、おそらく、「利己的資本主義を拝し、新しい協同経済社会建設へ」というところでは、常に本人の中で首尾一貫していたのだと思う。
そして、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と叫ばずにはおれなかった、あまりにも冷たく、暗い時代や社会に、なんとか熱や光をもたらそうとし、抗い続けたという点で、きっと一貫していたのだと思う。

紆余曲折を経たその軌跡は、そのまま、今日の仏教や浄土真宗が、いかに社会や政治に取り組むかを考えた時に、とても大きな示唆や教訓を与えるもののように思う。
どういうわけか、阿満利麿さんのように「エンゲイジド・ブッディズム」を唱える浄土門の人の本には、高木顕明や清沢満之はとりあげられても、西光万吉はあんまりとりあげられていないようだ。
時代が近いと、なかなか距離を持って冷静に取り扱うことのできない人だったからかもしれない。
しかし、西光はやはりエンゲイジド・ブッディズムを考える際にも、最も示唆に富む思想家のように思う。

西光が若い時に、大谷尊由と行ったという論争もとても興味深かった。

大谷尊由の主張は、仏教は「差別即平等、平等即差別」の論理であって、現実の差別がそのまま平等だと観じるものであり、自然の原因結果の連鎖によって起こってきた国家や社会構造や差別を批判するのは「偏空論」という仏教としては誤ったものである、この現実のままに法悦を感じるようになるのが浄土真宗だと主張したそうだ。

それに対して、若き日の西光は、尊由の主張は、原因と結果を直線的につないで「自然」の名の下で正当化しているけれど、そこには「人間の働き」が抜け落ちていると批判したらしい。

西光は、歴史は人間によってつくられるものであり、したがって個人の生活は必然的にこれに影響しなければならないと説き、時代を動かすのは目的を意識した人の力であり、単に観照の世界にかまえるだけでなく、この現実の矛盾や不条理を消滅させる努力をしなければならないと説いた。

そして、マルクスの「人類の意識がその存在を決定するにはあらず、社会的存在がその意識を決定する」という言葉と、親鸞の「よきこころのおこるも、善業のもよおすゆえなり、悪事のおもわせらるるも悪業のはからうゆえなり」という言葉をだぶらせ、

意識や精神を規定する存在として、マルクスが「社会的存在」、親鸞が「宿業」と述べるところのものが、尊由の主張には欠落していると見たそうだ。
そして「吾等に要るものは真に親鸞の魂に燃えた信仰の焔である。」と論じたそうである。

西光と尊由の論争は、今でもとても示唆に富み、考えさせられるような気がする。

何が本当に「真に親鸞の魂に燃えた信仰の焔」なのか。
失敗しながらも、そのことを常に求め続けた人の方が、何の失敗もしないにしてもそのことをそもそも求めもせずに安逸を貪った人たちよりは、少なくとも虚仮ではなく、真実だと、阿弥陀仏親鸞聖人もうなずかれるような気がしてならない。