(2009年4月頃記す)
福翁百話を読んでたら、人間を三等に分類している文章があって、なかなか面白かった。
下等な人というのは、他を害して自分の欲を満たそうとするような人。
中等の人というのは、さほど人に迷惑もかけないけれど、自分の一家のことだけぐらいしか考えもしないし何かするわけでもなく、人の相談にのることもない、社会のためを格別はかるわけでもない、そういう人のこと。
上等の人というのは、活発に立ち働き、一身一家の独立すでに成って人に迷惑をかけない上に、なお一歩を進めて、他の人の相談相手ともなり、社会の利害を案じ、自ら自分の力量を省みてよく問題を解決できると信じて、社会において頭角をあらわし、商売工業を企てたり、政治に関与したり、地方の民利をはかったり、宗教教育の先導者となるなど、公私両方のために力を尽す人。
ということらしい。
要するに、私生活だけちゃんとしている人が中等の人、公私ともに大いに活躍する人が上等の人、公私ともにちゃんとしてない人が下等の人、ということなのだと思う。
さらに、上等の人に区分される人が、具体的に何をなすかというと、実業・政治・地方自治・宗教や教育、ということらしい。
なるほどーっ。
思うに、戦後の日本というのは、どうも上等の人を目指すよりは、中等の人を目指したり、大事にしたり、培い育む傾向があったのではないかと思う。
自民党にとって一番都合が良いのは、中等の人であり、サイレント・マジョリティーというのは、要するに中等の人だろう。
岸信介が、巨人の野球を見て政治のことには関心を持たない選挙民をこそ最も望ましい国民と思っていたらしいことや、森が雨が降って選挙に来ない選挙民をこそ望んでいたらしいことなど、枚挙にいとまがないけれど、要するに、中等の国民というのが、自民党の期待する国民像というものだし、いわゆる「愚民」ないし「愚衆」ということなんじゃないかと思う。
下等の人に比べれば、もちろん中等の人の方がましだろうけれど、さまで中等の人が偉そうにするのもおかしなことだし、為政者や教育者が上等の人をつぶして中等の人ばかり増やそうとするのも、愚者の楽園みたいなぞっとする光景だろう。
下等の人というのがどうしようもないのは言うまでもないけれど、いわゆる中等の人びとが、ニート叩きなど、彼らが下等とみなす人びとを叩いて、なんだか優越感にひたっている昨今の様子を福沢諭吉が見たら、なんと形容するのだろう。
末世や澆季という言葉を福沢は嫌っていたけれど、あるいはそんな言葉も使いたくなったのではなかろうか。
目指すならば、あくまで上等の人であり、中等の人ではなかろう。