萩野忠行 「来目皇子」

二年ほど前、萩野忠行「来目皇子」という本を読み終わったのだけれど、なかなか面白かった。

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来目皇子は、聖徳太子の弟。

漫画「日出づる処の皇子」だと、母の間人皇后に特にかわいがられているという設定で、愛らしい皇子に描かれていた。
天才肌で奇矯な感じもする聖徳太子に比べて、愛らしい凡人の弟、という風に漫画だと描かれていたのだけれど、実像がどうだったのかは私はよく知らなかった。

この本によれば、聖徳太子もさらに下の弟の当麻皇子も戦場で手柄を立てている武勇にすぐれた皇子だったし、来目皇子も皇室の近衛軍である久米部族で育てられた皇子だから、おそらく武勇にすぐれた皇子だったのではなかろうかと推測されている。

皇族でははじめての将軍で、それまでの豪族中心の部隊編成を改めて、撃新羅将軍に任命されて、今の福岡まで二万五千の兵を率いてやって来ていた。
ただ、結局は新羅と戦争を始める前に、来目皇子が病没したので、戦争はなかった。
この出兵がどのような目的だったのは正確なことはわからないみたいだけれど、実際の戦争というよりは、新羅に対する外交的な圧力や、皇室に権力を集め、蘇我氏や大伴氏などの豪族から力を取り上げるための政策だったとも言われているようだ。

興味深いのは、来目皇子は、薬師如来に深く帰依し、若い時に重い眼病をわずらっていたのがそれで治癒して、それ以来、久米寺を建てるなど、薬師信仰に深く帰依していたとのエピソード。
この本の著者は、そこから、糸島の火山薬師も、実は来目皇子が建立したか、あるいは深くかかわっていたのではないかと推測している。
火山薬師は名水が汲める場所で、私もドライブがてら行ったことがあったので、へえーっと感心。

というか、来目皇子が、糸島で亡くなったとは、むかし漫画を読んだときにはさっぱり知らない、気づかないことだった。

来目皇子のお亡くなりになった地は、遺跡として石碑が今も建っているらしい。
いつか行ってみたい気もする。

なんというか、聖徳太子来目皇子は、ロマンがそそられるというか、古代の人だけど、不思議と親近感や興味がそそられる気がする。

聖徳太子の弟の来目皇子は、撃新羅将軍に任命されて、二万五千の兵を率いて、今の福岡の糸島半島に来たところで、病で亡くなるのだけれど、結果としていえば、来目皇子が急に病没したおかげで、日本と新羅は戦争をせずに済み、双方の多くの兵士が命を落とさずに済んだ、ということになる。

これは私の推測に過ぎないし、実際がどうだったのかはわからないけれど、来目皇子は、案外と日本と新羅の戦争を回避するために、自殺ではなかったとしても、自ら望んで病死したような面もあったのではなかろうか。

聖徳太子の息子の山背大兄王の非暴力に徹して滅亡していったのちの姿を思えば、聖徳太子の弟である来目皇子が、そうした人物であったことは、かなりありえたような気もする。

来目皇子は、亡くなった時には、おそらく二十七か二十八歳ぐらいだったらしい。
生きていれば、聖徳太子を支えて活躍したろうし、聖徳太子もずっと仕事がしやすかったのかもしれない。
のちに聖徳太子の一族が蘇我氏によって滅亡されることも、案外と来目皇子が長生きしていれば防げたのかもしれない。
ただ、来目皇子の子孫は、聖徳太子の一門が滅亡したあとも生き残って子孫がずっといたらしい。
聖徳太子とは、またちょっと違った背景や係累を持っていたことが大きかったようだ。

この本の筆者の方は、日本書紀には記録されてないけれど隋書に記録が出てくる西暦600年の日本からの隋への使節は、ひょっとしたら福岡にやって来た来目皇子聖徳太子と打ち合わせて派遣した使節だったのではないかと推測している。
いろんな記述からしても、そうだったのかなあと思われるような気もする。

若くして早くに亡くなったし、なにせ古代のことなので、あんまり詳しい事績は伝わってないみたいだけれど、自らの病没と引き換えに多くの将兵の命を結果としては救って戦争を未然に防いだ、というあり方は、なんというか、維摩経の「衆生病むゆえに我も病む」や、無量寿経の「仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」を連想させられる気がする。
いつか、奈良の久米寺にも行ってみたいものだ。

にしても、聖徳太子来目皇子山背大兄王も、なんだか不思議な人だなぁと思う。

おそらく、後世の形骸化した、気の抜けたような葬式仏教とはぜんぜん違って、もっと真剣な生きた仏教を全生涯をあげて求めて生きた人たちだったのだろう。


(その後、糸島にある来目皇子の石碑に行った。そのすぐ近くにある来目皇子を祀ってあるという久米神社にも行くことができた。遠い古代の歴史と、今は、決して断絶しているわけではなく、つながっているのだと思う。)