大坂夏の陣図屏風 戦国のゲルニカ

二年半ほど前、NHKの「その時歴史」の再放送で、「戦国のゲルニカ」というタイトルで「大坂夏の陣図屏風」の特集があっていた。

(以下は、その番組を見た時の感想)


大坂夏の陣図屏風」は、大阪夏の陣の戦争の様子を描いた屏風絵だが、「戦国時代のゲルニカ」とも呼ばれるそうで、通常の屏風絵と異なり、詳細に戦場の悲惨さや庶民の被害を描いているところに特色があるとのこと。

たしかに、身の毛もよだつような悲惨な様子が描かれていた。

大阪城は、外堀の内部に多くの庶民の家が並ぶ、町を内側に抱えた城塞都市だったそうだが、冬の陣の後に外堀が埋められ、しかも夏の陣が急に始まったため、一般市民が脱出する暇がなく、多くの非戦闘員が戦争の巻き添えになったらしい。

関が原の十五年後にあった戦争で、その間束の間平和だっただけに、雑兵たちが一儲けする物獲りの場ともなったらしく、略奪や暴行などすさまじかったらしい。

「にせ首」と呼ばれる、非戦闘員の首をはねて戦場で採った首に見せかける行為が数多く行われたそうで、多くの庶民の命が奪われたらしい。
また、奴隷狩りもずいぶん行われて、大阪の陣だけで少なくとも五、六千人以上が奴隷として連れて行かれたそうだ。

大阪冬の陣夏の陣が、こんなに悲惨な市街戦だったとは知らなかったので、見ていてとても驚かされた。

そういえば、徳川家康は、大阪の陣の戦争に入る前に、たびたび居城に腹心の僧侶を集めて、かなり深い内容に及ぶ仏教に関する問答を行っていたと聴いたことがある。
「方便によって大罪を犯しても人間は許されるのか?」みたいなテーマにも及んでいるそうで、書名を忘れてしまったけれどその問答を記した書物も残っているそうだ。
また、若い時からも浄土宗の登誉上人の勧めでたくさん南無阿弥陀仏の念仏を称えていそうだけれど、大阪の陣のあってのちの晩年は一日に六万回以上の念仏を称えていたそうである。

おそらく、家康は、大阪の陣が始まればそれぐらい悲惨な戦争になるのは想定していたし、戦争が終わった後は、大阪の陣を含めたいろんな戦争の罪業を誰よりも深く自覚していたからこそ、日々六万もの念仏を称えずにはいれなかったのだろう。

それでも、自分が死んだあとにまで豊臣の勢力が残っていたら、再び天下大乱になると思って大阪の陣を始めないわけにはいかなかったのだろうか。

もちろん、家康の責任もあるのだろうけれど、天下の大勢が決したあとも大阪城を引き渡すわけでもなく抵抗の意思を示して浪人をかき集めた豊臣方・淀君などの責任もずいぶんあったような気がする。

大坂夏の陣図屏風」は、黒田長政が絵師に命じて描かせて、長く黒田家の所蔵だったのを、戦後に大阪市に譲られたとのこと。
黒田長政が、この「戦後時代のゲルニカ」とも言うべき悲惨な戦争の記録を描かせた、と聴いて、とても意外な気がした。

黒田長政は、一般的には偉大な父親と比べて一見地味な印象がある。
だが、案外、一番まともで立派な人物だったのかもしれない。

考えてみれば、長政の父親の如水は、関が原の戦いの時に、九州を平定してそののち天下を平定する野望を持っていたことはよく言われること。
また、長政が幼少時代から一緒に育った家臣の後藤又兵衛は、如水の死後長政と対立し、大阪冬夏の陣では大阪方に参加して、真田幸村とともに大阪方で最も活躍した猛者。
長政の息子の忠之は、長政の死後、太平の世にもかかわらず軍艦を建造したりして幕府に疑われるような振る舞いをし、黒田騒動を引き起こした人物。

こう考えると、長政の周囲にはこの上なくデインジャラスな人物が満ち満ちている。
長政という人は、案外もっともまともで理性的な人で、戦争の悲惨さもよく直視しており、自分の周囲の人物や自分自身への戒めのために「大坂夏の陣図屏風」を強い意思で後世に記録としてのこそうと考えたのかもしれない。

長政が関が原等で家康に積極的に協力したのも、単に考えなしで単純に協力したというのではなく、家康しか天下の平和をもたらす人間はいないと見込んで、父親の如水の天下取りの意向を無視してまで家康に積極的に協力して早期の政情の安定を図っていたのかもしれない。
そう考えると、長政という人は、如水よりもある意味しっかりした人物だったのかもなぁという気がしてくる。

にしても、「大坂夏の陣図屏風」を見ていると、あらためて、豊臣の多くの人を巻き添えにした悲惨な滅び方に比べて、江戸幕府の幕引きは見事だったと思う。
場合によっては、大阪の陣以上に悲惨な内戦や市街戦を、徳川幕府が自己の立場に執着していれば巻き起こしていたのかもしれない。
そう考えると、江戸幕府の幕引きにおける、勝海舟山岡鉄舟西郷隆盛徳川慶喜の功績と偉大さというのは、本当に大きかったなぁと改めて思う。

特に、勝海舟は、万が一和平交渉が破れて江戸が戦場になった場合のことを考えて、新門辰五郎などと計って、江戸の市民を脱出させる準備も進めていたというのだから、その深謀遠慮たるや計り知れないと思う。

大阪の陣の時にも、勝海舟並の人間が豊臣方にいれば、ああした悲劇は回避できたのかもしれないが、いなかったのだろう。
また、徳川慶喜に比べると、淀君豊臣秀頼はあまりにも愚かだったということだろうか。

大坂夏の陣図屏風」は、大阪城で年に数週間は見れるとのこと。
いつか実物を見てみたいなあと思う。



大阪夏の陣図屏風 動画
http://www.youtube.com/watch?v=89xgfjIM_tE