書経に「野に遺賢無し」あるいは「野に遺賢をなからしめる」という言葉があるらしい。
在野にすぐれた人材が残っていないかよく調べ、すべて良い人材を国王が抜擢し用いる、用いるべきだ、ということのようだ。
それはそれで、良い人材を求める昔の良い王様の心がけを現した故事であろう。
しかし、本当に野に遺賢がなくなったら困るのではないか。
イギリスには、カントリー・ジェントルマン、あるいはカントリーという言葉がある。
自分の地域のことは自治し、地方にあって中央の政治をいつも批判的に観察し、一朝ことある時には何か言い動く、そうした中央権力に飼い馴らされない一群の人々のことを指している。
18世紀のイギリスにおいては、宮廷党(court)と野党(country)という区別が使われ、従来のトーリーとウィッグの区分にこだわらず、どちらであっても権力に飼いならされていればコート、在野にあればカントリーと呼ばれたようだ。
中国が、古代においてあれほど早熟な文明を築きながら、長く停滞していったのは、あまりにも巨大な中央集権体制ができあがり、すぐれた人材がほとんど中央に吸い上げられて、しかもこぞって皆中央の権力を志向するようになり、多様性や在野の批判精神が奪われたからではなかったろうか。
中国においては、官吏は「牧民官」、つまり民を牧場の羊のように管理するものであり、その統制に素直に従わないものは「不牧の民」(菅子)とネガティブな批判の対象となった。
飼いならされたくない人は、社会からドロップアウトする逸民や仙人にしかならなかったし、なれなかった。不牧の民を積極的に位置づけられなかったところに、中国の停滞の原因はあったのではないかと思う。
イギリスが、比較的早くから権力への制限や政治的自由を持ちえたのは、カントリーの精神が横溢していたからではなかろうか。
もちろん理由はそれだけではなかったかもしれないが、一つの理由にはそんなこともあったように思う。
実際、18世紀イギリスの財政軍事国家が効率的で透明性の高いものになったことは(またそのために巨額の国債調達が可能になり第二次英仏戦争に勝ちぬくことができたのだが)、カントリーの批判によるところも大きかったようである。
日本の「草莽」という言葉も、中央の権力に飼い馴らされない、また中央の権力を必ずしも志向しない、何よりも独立自尊を志向する、そんな一群の人々の呼び名だったように思う。
江戸時代、日本は中国の文化の影響も多大に受けながら、同時代の中国のような中央集権は採用せず、地域自治・地方分権の藩の制度をとっていた。
そのため、幕末の危機に際しても、多様な地域・地方から、草莽崛起し、さまざまな人材が中央とは違った視点や、中央権力への批判精神を発揮した。
明治以降、日本は急速な近代化のために中央集権制度を採ってきた。
福沢諭吉は、一貫して政府の役職には就かず、弟子達にも官僚や政治家になりがたるよりは、野にあって実業や言論を志すことの大切さを説き続けたけれど、上記のような認識が根底にあったように思う。
野の賢、カントリー・ジェントルマン、草莽。
そうした存在こそ、地の塩であり、いつの世も世の中の腐敗を防ぎ正気を保つには一番大事な一群の人々であり、精神なのではないかと思う。