人は何によって社会をつくるのか

人はなぜ、社会をつくるのか。


言い換えるならば、人はなぜ、何の理由で、お互いに助け合い、連帯するのだろう。


人が結びつく場合には、いろんな理由があると思う。
家族のように愛情や血縁で結びつく場合もある。
仕事やお金や利害で結びつく場合もある。
地縁や、趣味や、同窓ということもあろう。
国や階級によって結びつくと考える人もいるようである。

 では、自分の家族でもなく、これといった直接の利害関係も強くなく、地縁や趣味や同窓でもない人とは、無関係で、助け合うことはできないのだろうか。
 あるいは、国や民族を異にする人や、階層や階級が異なる人とは、連帯の契機はないのだろうか。

 そうではない、と私は思う。

 ヒュームという思想家は、なぜ人間が社会をつくるかという理由について、結局のところ人は一人ではあまりにも弱すぎ、災害や苦難にも弱く、誰でも老病死に直面しているから、と考えた。そのため、相互扶助を必要とするため、人は社会をつくると考えた。
 釈尊も、人は誰もが生老病死の苦しみに直面していると説いた。

 人がお互いに助け合う必要があり、またお互いに苦しんでいる人を見れば手をさしのべたいと思う理由は、ここにあるのではなかろうか。

 誰もが、いつかは必ず死ぬ。いつ病気になるかわからない。また誰でもが老いていく。
 もしそのことがわかれば、誰か身内を亡くした人にはいたわり、病のある人にはできる限り手助けし、老いた人にもやさしくありたいと思うのではなかろうか。
 それらの運命は、いつか必ず自分自身や自分の身内にも降りかかってくるのだから。

 さらに、災害や不慮の事故も、いつ降りかかってくるかわからない。
 たとえ可能性は低いとしても、誰でもその可能性は除去できない。
 誰かに起こりうることは誰にでも起こりうる。
だとすれば、社会全体でなるべくリスクを分散し、災害や事故の予防に努め、もしそれらが起こってしまった場合はその被害に遭った人をなるべく社会全体でバックアップすることが、自分自身の安全や安心のためにも妥当な行為と思う。

 ただ、悲しいことに、人間は無明・無知に覆われた生き物である。
 自分が若い時は、老いのことが見えない。
 自分が健康な時には、病の人の苦しみがわからない。
 自分が生きている時は、自分がいつか死ぬ身とは、なかなか思えない。
 老病死を見ずに、己の利欲のみを求め、社会の中のつながりや苦しみの分かち合い、喜びの分かち合いに、ともすれば無関心になってしまう。

 草莽というのは、人間が老病死に直面していることを直視することから始まることではないかと思う。
 そこに、狭い範囲にとらわれない、人間の本当の連帯や助け合いの道が見つかるのではないかと思う。 


いつか死ぬこと。
いつか老いること。
いつか病にかかること。
愛する人といつかは別れなければならないこと。
社会のありかたも自分の人生も、自分自身の行為次第であること。

この五つのことをよくよく観察した時に、人は本当に絆をつくり、また持とうとできるし、社会を本当に意味あるものに転じていくことができるのではなかろうか。