草莽とはつながりを持った個人


 ある思想家が、こんなことを書いていた。

 どんなに大きな樹も、その樹だけならば、大風や地震に案外と簡単に倒れたり折れたりするものだと。

 一方、そんなに大きくない木や竹でも、森や林となり、根がいっぱい集まっていれば、いくら台風が来ようが地震が来ようが、そう簡単には倒れないし抜けない。
 
そのように、中央に権力が集中しすぎている社会よりは、地方にそれぞれに自治があり、分権があり、多様な社会や集団がある方が、社会は本当の意味で根強い、と。

私もそのように思う。

ここで大事なのは、本当に根強いものは、単にそれぞれが独立した存在であるというだけでなく、根がからみあった、「集まり」であるということと思う。

それぞれの人が、独立自尊の、自立した個人であることは大事である。
しかし、本当に自立した個人というのは、ひとりだけではなしえないのだと思う。
志を同じくし、また意見は部分的には違っても、お互いに切磋琢磨し、連帯しあうことのできる、そんな集まりやつどいがあってこそ、人は独立自尊の個人であることもでき、本当の強さも持ち得るのだと思う。

幕末においては、松下村塾適塾や三計塾などの私塾が、多くの人材を育てたが、それはそこに連帯があったからだと思う。
バラバラの孤立した個人ではない、多くのつながりや網の目を持った個人こそが、本当の強さを持つ個人なのだと思う。

近代社会というのは、残念ながら、中央集権の官僚機構や無機質な市場経済が宿命的につきまとう社会である。
それは能率や効率のためには良い面や必要な面もあるのかもしれない。
しかし、そこにおいて個々人がなんらの連帯も持ち得ないようになるならば、中央集権の権力にも市場経済の猛威にも、なんらの抵抗の根拠も持ちえず、自律した思考も倫理も持ち得ない、バラバラの砂粒のような無力な存在しか人の世には残らないのではあるまいか。

孤立した個人というのは、どんなに身を硬めても、案外と簡単に倒れる一本の木のようなものではなかろうか。
大事なのは、連帯した個人だと思う。
「草莽」というのは、そうした含みのあることばだと思う。

本当の独立自尊の人とは、そのような草莽、あるいは小規模の具体的な絆を持ち、また大事にしている存在ではなかろうか。