鳥が飛び立つように

箴言にはいくつも印象深い言葉があるけれど、私にとっては特に印象深いのが以下の言葉。


Like a bird that flees its nest
is anyone who flees from home.
(Proverbs 27.8)


鳥が巣から飛び去るように
人もその置かれたところから移って行く。
箴言 第二十七章 第八節 新共同訳)


鳥のように巣から飛び立つ。
そのように人は、その場所から飛び立つ。
箴言 第二十七章 第八節 自分訳)


ケツィポール・ノデデット・ミン・キナーハ・ケン・イッシュ・ノデッド・ミメコモー


鳥が巣から飛び立っていくように、人も今いる場所からいずれ飛び立っていく。
という意味だと思う。


この言葉は、具体的には、何を意味しているのだろう。


いろんな場面で、それぞれの受けとめ方があるのかもしれない。


鳥は、雛から成長すると、親元を離れて独立して巣立っていく。
手島圭三郎の絵本などを読むと、よくその様子が北海道のいろんな鳥たちを主人公に感動的に描かれていて、どの生きものも一生懸命生きてるんだなぁとさわやかな感動を覚える。


人間もまた、よく学校の卒業の時など、巣立ちの時などと言う。
そういったことをこの箴言の一節は言っているようにも読める。


しかし、この一節はおそらくは、単なる卒業や独立ということよりも、この地上の生からいずれ人は離れて去っていくということを述べているのではないかと思う。


人間の致死率は100%だとときどき冗談のようにして言われる。
たしかにそのとおりで、人は生れてきた以上、いつかは必ず死ぬ時が来る。


普段はあまりそのようなことは考えず、いつまでも生きているかのように生きているけれど、ずっと先かもしれないし、今日明日かもしれないが、いつかはその日が来る。


現代では死をあまり考えないようにすることが一般的である。
病院や葬儀場に死は隔離されている。


しかし、中世においては、洋の東西を問わず、人間は死を深く見つめて、この人生からどのように去っていくかをよく考えて生きていたようである。


仏教においても、「往生」という言葉において、この世を去り、浄土に移っていくことに、かつて多くの思索や修行や努力がなされていた時代があった。


現代人にとっても、誰であれ、いずれ、自分の身近な肉親の死や、あるいは自分の死に直面すれば、おのずとこの問いに直面せざるを得ない。


私はどこから来て、どこへ行くのだろうか。


その答えは、おそらく客観的にこうだと示すことは、通常の人間にはできないし、また他人がどうこう言えることではなく、本人が問い、感じ、実行する他ないことなのだろう。


ただ、おそらく言えることは、死んで無になる、あるいは死んだらゴミになる、と思っている人の人生は、しょせんはそのようなものなのではないだろうか。
一方、この身は死んでも不滅の生命を得る、あるいは尊い仏になっていく、と思い、そのように生死を超えた価値を実現していく人は、やはりそのような人になっていくのではないかと思う。


この人生を死で行き詰まりのものと思うか、あるいはここはしょせんはいずれ別のところに飛び立っていくまでの、仮の宿りと思うか。
人は仮の宿りと思えばこそ、その時を大切に慈しむことができるのではないかと思う。


いつでも現在というものは、将来への見通しと過去への解釈の中で成立するものである。
どのような展望を持つかは、現在の内容を決めることにつながる。


浄土を思うことは、別に死後のことを思うだけのことではない。
浄土を思えば、今の心において、浄土が働いていることになる。


その働きや展望の中で、人は日ごろのあさましい自分の生き方を見つめ、慚愧し、できる限り良い美しい生き方をしようと心がけるものなのだと思う。


いずれ飛び立つことを見つめていれば、この世にいる間は、なるべくこの世を美しく、愛おしんで生きようという思いになる。


古事記ヤマトタケルノミコトは、最後死ぬ時は、白鳥になって飛び立っていったという。
古代人は、人の人生や魂が飛び去っていくことを、洋の東西を問わず、鳥が飛び去っていくように感じていた。


この世を終える時、いかに美しく飛び去るか。
また、どのように美しいところを目指して飛び立つか。
それは、ひとえに今この人生を日々にいかに生きるかに大きく関わっている。
そして、今この人生をいかに生きるかは、やはりそのような意識の有無によって大きく左右されてくる。


現代人がとかく忘れがちなこのことを、箴言のような古代の知恵の書は、あらためて深く考えさせてくれる。


そして、おそらくは、この世においてなすべきことをなしてこそ、美しく飛び立てるのではないかと思う。