李朝と現代日本 雑感


 李氏朝鮮と今の日本は、いろいろ似ているところがあるのではないかとかねがね思っている。

 もちろん、似ていないところもいっぱいあるだろうし、あくまで印象論に過ぎないのだけれど、類似点としては以下の諸点。

 「一」、李朝は、明の没落にうまく適応できず、台頭する清や日本の実力を無視し、極めて硬直した世界観しか持ちえず、そのために清や日本から大変な目に遭わされた。
 今の日本も、アメリカ中心の世界観と対米従属一辺倒で、いたずらに台頭する中国やロシアやインドを軽視し、的確に世界情勢の変化に対応できないならば、今後似たり寄ったりの状況になっていくかもしれない。

 「二」、李朝では、両班と呼ばれる特権階級が、無能のくせに威張りくさり、庶民を搾取し、旧態依然たる政治を延々と続けるばかりだった。しかも、激しい党派対立が年がら年中起こり、足の引っ張り合いばかりしていた。庶民もたまには抵抗もあったが、おおむね無気力無抵抗だった。
 日本も、天下り官僚や腐敗政治家が、無為無策なのに高給を貪り汚職を繰り返し、庶民の暮らしを顧みず、しかも単なる足の引っ張り合いを繰り返すならば、同様の状況に陥っていくかもしれない。庶民の無気力無抵抗無責任も同様である。

 「三」、李朝では科挙が重視され、受験型の秀才ばかり重用された。そのため、型破りの人材がなかなか登用されなかった。しかも、門閥や学閥が幅を利かせていた。
 日本も、学歴偏重や二世議員ばかりであれば、おのずと活力はますます失われ、型破りな人材は出にくいだろう。

 「四」、李朝においては、基本的に内向き志向で、あんまり自ら文化の発信を世界に心がけることもなく、また諸外国から文物をとり入れようともしなかった。例外はあったとしても、全般的傾向としては自閉的傾向が強かった。
 現在の日本も、国際化とは言いながら、実際どの程度本当に世界化・国際化されているのかは若干疑問の面もある。精神的に自閉的であれば、いずれ文化的に行き詰るかもしれない。


これらは、もちろん、若干誇張した極端な議論である。
李朝も、実際には内部に実学を重視した開明的な人物もいたし、清に柔軟な外交をしようとして挫折した光海君などの国王や人々もいた。
また、美術工芸的には、李朝時代は非常にすぐれたものが多々あったことは特筆すべきだし、それなりに安定した統治やすぐれた文化があり、探せば内発的な近代化の要素もあったとは思う。
ただ、結果として李朝はあまりそれらの要素を活用できず、清に押えられ、のちに日本に植民地とされることになった。

とかく朝鮮を蔑視したりするネトウヨや偏狭な愛国者の人にとっては、現在の日本を李朝に似ているとでも言ったら随分反発を受けそうだが、空疎な自国至上主義や老大国にやみくもに忠誠を尽して周囲の国をいわれなく蔑視する態度こそ、まさに李朝の「事大主義」とよく似たものと言えるかもしれない。

そう、上記の四つの弊害を一言で言えば「事大主義」だろう。
そして、今の日本にも、ともすれば「事大主義」が蔓延していまいか。

幕末の日本がよく危機に対処し、未曾有の国難を乗り越えることができたのは、事大主義に飽き足らず、事大主義を批判する進取の気概に富んだ人々が多数いたことによると思う。
朱子学の事大主義を儒学の内部から批判した陽明学や古学の存在もそれらの人々を育てる原因のひとつだったろうし、また蘭学国学も、事大主義の朱子学を批判するための大きな知的な潮流だったろう。

おそらく、まだ当分は短期間で中国がアメリカの覇権に取って代わるということはないと私も考えるが、しかしあまりにも硬直した対米従属一辺倒もこれから先あまり意味をなさなくなっていくと思う。
現在、諸外国は外交政策の調整機関に入っていると思うし、より多極化へ世界は向っていくだろう。

日本も、外交と内政や精神面における自らの事大主義を適切に乗り越え、外交政策多角化や国内の腐敗除去、自由な人材育成、精神的鎖国の乗り越えを行っていくことができれば、なんら恐るるものはなく、今後も繁栄を続けていくと思うが、事大主義にばかり漬かっていれば、あたらせっかくのもろもろの宝を持ち腐れさせ、長期的に徐々に衰退の道を歩むかもしれない。

かつて自ら息の根を止めた李朝にわが姿がよく似ているとしたら、かなりなブラック・ユーモアと言わざるを得ないのではないか。
案外と、李朝の歴史にこそ、今の日本は学ぶべき教訓が多いような気がする。