なぜ“なぜ?”と思わないのか

以前読んだ、日本の禅宗のお坊さんとスリランカ上座部仏教のお坊さんの対談の中に、なかなか考えさせられたことが書いてあった。

 その日本のお坊さんが、

大正末や昭和初期生まれの人は、敗戦で一度「思想的背骨」が折れている。
 だから、自信を持って社会や人生の規範を示すことが多くの場合できていない。
 それに対して、戦前の日本人は、その是非善悪は別にして、厳とした規範があり示すことができた。

 ということを述べていた。
なるほどー、そうかもしれないと思いながら読んだ。

 さらに、その日本のお坊さんは、
その規範は「天皇のために死ね」というものだった、
ということを述べていた。

それに対して、スリランカのお坊さんが、
よくそれがかつて成り立ったものだ、なぜみんな「なぜ天皇のために死ななければならないのか?」と疑問に思わなかったのか、と質問していて、

なるほどな〜、と考えさせられた。

 かつて、その是非善悪は別にして、天皇のために死ねという規範がかつて成り立ち、しかもそれに対して異議や疑問を言う人があまりいなかった、というのは、考えてみればかなり驚くべき現象だったのかもしれない。

 ある人は、それを日本の美風として賛美するかもしれない。
 ある人は、狂信的な二度と繰り返してはならないことと考えるだろう。

 是非善悪は別にして、あまり「なぜ?」という疑問が持ち上がらなかったことが、驚くべきことのように思う。

 ただ、それは日本人だけに限ったことではないのかもしれない。

 アメリカも、「民主主義のために死ね」と言われれば、さしたる疑問もなく銃を持って他国で戦死してくる人々が今も昔も随分多いようである(たいていの場合途中で我にかえって後悔する人も多いようだが)。
 イスラム諸国にも、人数の割合としてはどれぐらいなのかはよくわからないが、過激派の人々はイスラムの神のためならば、自分が死ぬことも他人が死ぬこともあまり疑問を持たないようである。

 どこの社会も、何かしらいったん正義や大義や常識や権威というのができあがると、あまり疑問を持たずにそのために死ぬことが、大なり小なりあるのかもしれない。

 それぞれの正義や大義や常識や権威には、幾分か正当な事由のある場合もあれば、あんまりない場合もあるかもしれない。
 そのそれぞれの是非善悪をここで別に論じようとは思わない。
 ただ、なんであれ、あんまり「なぜ?」と思わないということは、なぜ?と問い直されても良いことではなかろうか。

 きちんとした説明があればいい。
 また、それぞれの人が、自分なりの納得のいく理由付けがしてあるならば、それはそれでいいのかもしれない。

 しかし、安易な納得や思考停止ではなくて、徹底して「なぜ?」と問う人間が社会にもっと多数いてもよいのではないか。

 もちろん、探せばいたのかもしれない。
 いつの世も、そうした人はごく少数なのかもしれない。

 過去のことは別にして、今現在、日本の軍備や戦争や、あるいは外国の軍隊の駐留のことについて、そのための犠牲や血税の投入(その分福祉は削られるというわけだ)について、本当に国民は十分、なぜ?と問い、そのことへの答えや理由を見つけてきたのだろうか。

 政治というのは、究極的には人の生き死ににつながってくるだけに、本当は根源的な問いを必要とするものだと思う。
 無責任に軍備の無視を言うこともどうかと思うが、無責任に外国軍の駐留に疑問を持たないのもどうかと思う。

 案外いつの世もタブーや常識や権威というものがあり、その禁止の有無に関係なく、あんまり世の人に疑問を持たれないこともあるのかもしれない。
 よく、一般的には天皇主権から国民主権へ移行したのが戦前から戦後への大きな変化、みたいなことが言われるが、天皇主権から某外国軍隊への主権や権威の移行だったとしたら、さして戦前に比べて戦後というのも誇るほどのこともない、かえって情けない部分もありやしないかと思う。

今の日本は本当に思想的背骨が折れているのか。
あるいは別のもっと無気力な規範がとってかわったのか。
いずれにしろ、あんまり疑問もなく、ただ某国の顔色ばかりうかがうマスコミや世論ばかりがあったとすれば、そう言わざるを得ない気がしてきた。