雑感 光海君と仁祖

ふと、これはあくまで私の印象論に過ぎないのだけれど、李氏朝鮮の十五代の国王の光海君と、十六代の国王の仁祖を、今の日本の政治を見ていると、連想させられる。
このあたりの歴史は、よく韓国の時代劇であるせいでもあるけれど、なかなか考えさせられる歴史である。


光海君は、その名が「宗」ではなく「君」にされていることからわかるように、廃位された王である。
李王朝の五百年の歴史の中で、強制的に廃位された王は、光海君と燕山君の二人しかいない。
(端宗も事実上は廃位だが、一応自発的な譲位という形になっている。)


燕山君が史上稀なほどの暴君だったのに比べて、光海君は決して暴君だったわけではない。
むしろ、聡明な国王だったようである。


光海君は先代の国王の宣祖の時に豊臣秀吉に国土が蹂躙されて荒廃したのを、多大な努力で復興しようとした。
もともと、秀吉が攻めてきた時も、宣祖は国民を見捨てて明の国境を越えて逃亡したのに対し、世子として朝鮮に踏みとどまって抵抗の中心となった人物だった。


しかし、復興には莫大な資金がかかり、廃墟となった宮殿の再建にも巨額の資金がかかるため、重税を課すことになった。
しかも、そう一朝一夕に何もかもすぐに回復するわけではない。


そのうえ、当時は、明が衰退し、女真族の後金(のちの清)が台頭してきていた。
光海君はその情勢を的確に把握し、明と適度な距離を置きながら、後金ともうまくやっていく外交を心がけた。
しかし、そのことは、今まで明を宗主国として崇めてきた事大主義の朝鮮の両班たちには受け入れがたいことで、蛮族である女真族に媚び、宗主国の明に不実なろくでもない君主だと反発された。


光海君は、多大なストレスからか、やがて酒食に溺れるようになった。
また、信頼できる家臣があまりにも少なかったため、李爾瞻などの奸臣を重用し、それらの人々の横暴な振舞は、やがて光海君への怨嗟となった。


また、李王朝の毎度のことだが、王家の内部での骨肉の争いがあり、光海君には臨海君という兄と永昌大君という幼い弟がいたが、その二人とも、心ならずも殺すことになる。
永昌大君の母親の仁穆大妃(つまり光海君にとっては年下の継母)を十年間も西宮という宮殿に閉じ込めることになる。


こうしたことから、ついに家臣や国民の不満が噴出し、光海君にとっては異母弟の息子、つまり甥にあたる人物が担がれ、仁祖反正というクーデターが起こり、光海君は廃位させられ、済州島流罪となった。
光海君はそこで十九年間過ごした後、結局殺されることになった。


仁祖は、王位を継ぐ時は聡明な人物と思われ、皆から期待され、世も改まったと思われたそうである。
しかし、明に忠義を励み、後金を敵視する政策をとった結果、清(後金)の大軍に攻められ、二回も大敗し、特に二度目は自ら清の将軍の前で土下座し、五十万以上の国民を捕虜として連行され、世子まで人質に出して、やっと自分の命と王位だけはつなぎとめた。
人質となった世子の昭顕世子は英明な人物で、北京で清の高官とも人脈をつくり、当時北京に来ていたイエズス会の宣教師らを通じて西洋の科学技術の摂取にも努めたそうである。
しかし、その昭顕世子が帰国すると、蛮族にかぶれ、しかも王位を狙うと考えた仁祖は、自らの子どもなのに毒殺した。
国内は停滞し、荒廃したが、仁祖は自らの王位を守るのには長けていたようで、無事に天寿を全うし、通常の「宗」ではなく格別な功績のあった王にのみ贈られる「祖」の呼び名で呼ばれる王として歴史に記録されることになった。


だが、後世から見た時に、光海君と仁祖の、どちらが妥当な政治を行っていたかは、当時とはかなり異なる評価があることだろう。


どうにも、菅さんと安倍さんを見ていると、この二人の人物が私には連想させられる。
などと言うと、安倍さんの支持者からは激怒されそうだけれど、どうも最近は特にその感が強まってきた。


朝鮮の歴史には「事大主義」という言葉があるそうである。
要は、明や清などの巨大な中華に仕え、改革や新しいものを拒み、強いものに媚びへつらい、因循姑息なありかたを指すようである。
李王朝の歴史の基調は、この事大主義だったようだ。
もちろん、例外は時折はあったようで、その事大主義を変えようとする人物も時々はいたようだけれど、だいたい大勢としての事大主義にかなわず、いつも新しい芽は摘まれてきたようである。


日本は、江戸時代を見ると、相対的に、李王朝ほどは事大主義の風潮が強くはなく、朱子学に対して、陽明学や古学、国学蘭学などの、対抗思想や対抗文化が存在し続けた。
また、李王朝のように国王と両班のみに権力が集中せず、朝廷と幕府と諸藩とで適度に権威や権限が分割され、しかも富裕な町人や農民がそれなりの財力を持っていた。
李王朝のような科挙もなく、変な学歴主義が江戸期の日本ではそれほど幅をきかせることはなかった。


しかしながら、今の日本を見ていると、どうも江戸時代の日本よりも李王朝に似ている気がしてならない。
仁祖がどのような容姿だったのか、写真が当時はないのでわからないが、おそらくはそれなりにスマートで貴族的な顔立ちをしていたのではなかろうか。
ちょうど安倍さんのような。
そんな気がしてならない。