利井先生 観経講義メモ

(2010年9月27日 利井先生 観経講義メモ)


A、観経について

私たちの人生は、思い通りにならないことがたくさんある。

なぜそうかというと、煩悩中心だから。
私の煩悩を中心として生きようとするから、思い通りにならない。

そのうえ、各自の煩悩は、各自それぞれ異なる中身や形であり、食い違い、ぶつかり、反目する。

極楽とは、お浄土とは、煩悩を中心としない世界のことである。

観無量寿経では、観仏が説かれる。

観無量寿経には、仏様から見える世界が描かれている。
私の都合ではなくて、煩悩のない眼で見るから、大地の本当の尊さがわかり、大地が黄金や瑠璃地に見える。

観無量寿経における観仏とは、仏様と同じ感性を持ち、仏様と同じものの見方をするということである。

しかし、それは不可能である。

観無量寿経の観仏は最高の教えではあるが、煩悩具足の凡夫にはできないことである。

これを古人は、

「権法をもって実機をたたき出す」

と述べた。
観無量寿経という仮(権)の教えをもって、自分の本当の姿を自覚させる、ということである。
観仏は無理で、御念仏しかないということを自覚させるのが、観無量寿経の本当の教えということである。

しかし、それでは、観無量寿経の内容や観仏は、捨てものかというと、そうではない。

観仏は往生行としては不可能だけれど、仮の教えだけれど、浄土・弥陀の徳が讃嘆されているものとしては、真実である。
讃嘆は真実。

ゆえに、真身観や観音観など、しっかりいただき、味わうことは、弥陀の御徳を味わうことである。


B、浄土真宗における「救い」、特に現生の救いについて

浄土真宗における「救い」、浄土真宗のお救い(御利益)には、二つある。

一つは、当来の救い。
もう一つは、現生の救い。

浄土真宗における当来の救いとは、御信心いただいた念仏者は、命終わったのちには、浄土に往生して仏となるということ。
これは、本当はありうべからざる、すごいことである。
しかし、煩悩具足の凡夫にはなかなかあまり喜べない。
歎異抄唯円も、喜びが淡くしか起こらないけれどこれでいいんだろうかと言っていることで、なかなかはっきりとはよくわからないことである。

一方、現生の救いとは、正定聚になること。
正定聚とは、正しく成仏が定まったともがら、
つまり、命終わったのちには、浄土に往生して仏となるべき身に今定まること。

正定聚=安心。
心が定まる、よりどころがしっかり決まる。

しかし、当来の救いがよくわからないならば、正定聚もよくわからないことかというと、そうではない。

正定聚とは、要するに、私の価値観が変わること。
新しい価値観に転換すること。

今まで煩悩を中心とし、自分を中心に考えていて、それが当然と思っていたのが、仏が真実であり、仏が中心であるという風に価値観が転換すること。
仏という価値観を得て、是非の基準が定まること。

現生正定聚は具体的な確固としたもの。

価値観が変わる。
私中心が正しいと思っていたのが、誤りだったと気付く。
正しさは仏の側にある。
仏=正=真実。

我が中心だったのが、弥陀の真実に出遇って、ひっくり返る。

ここが大事な救い。
新しい価値観を得ることこそが、現生の救い。
本当に正しいものとは何か、知ること。

このことは、生き方に大きな影響、変化がある。

具体的な現生の救いの内容について、現生十種の益として親鸞聖人は教行信証に明らかに書いている。

1、 冥衆護持

見えない存在が守ってくれている、という意味。

たとえば、法事も、私がした、私がやった、と思ったらいけない。
そうではなく、先に亡くなった家族やご先祖様のおかげで、その方たちが中心となって働きかけて、今私も法事をつとめさせてもらい、仏様の話を聞かせていただいている。
働きを受けている。
そのおかげで、今御念仏申している。
そうでなくて、自分がしたと思っていたら、都合が悪くなったりめんどくさくなったらやめる。
目に見えない、先だった家族やご先祖様が守ってくださって働きかけているからこそ、煩悩中心であった私が、御念仏申す身になり、今仏法を聴く身となったと気付くことが冥衆護持。

2、 至徳具足

煩悩具足の私が、至徳の念仏を称える身になる。
御念仏申すこと。
如来の御徳をいただいて、生きていく。
御念仏申すところに、如来の御徳をいただいていく人生が恵まれる。

3、 転悪成善

悪は消えないが、転じる。
煩悩は消えないが、その煩悩を転じていくことができる人生。

煩悩中心を当然とせず、煩悩に気付いて、慎み、正しい方向に転換していく。
そうした人生が、念仏者には恵まれる。

煩悩中心であった私が、仏の真心を聴き、そうではなかった、仏様が中心であった。
そう聴いて、気付く。
それを何度も繰り返す。
その中で、少しずつ、身につく。
仏の真実に何度も触れることにより、煩悩に敏感になっていく。
敏感な感性に恵まれる。
そこに、慎みと、悪を転じて善に向かっていく人生が恵まれる。

4、 諸仏護念

阿弥陀経の六方段にあるように、東西南北上下の無数の仏様が守ってくださっていること。
六方段は、何度も繰り返し読む。
本当はとても大切な、すごいことなのに、なかなか我々はそうは思えない。
仏のことは仏に聴く。
六方の無数の仏が御念仏を勧めてくださり、御念仏を私が申すように働きかけ、守ってくださっている。
そのことを何度も聴き、気付くところに、驚きと安心が恵まれる。

5、 諸仏称賛。

仏中心の生き方に、よく気付いたと、諸仏が誉めてくれる。
御念仏申す人には、自分中心ではない仏をよりどころとする人生が恵まれるが、これは本当に稀有な、珍しいこと。
そのことを、諸仏がとても喜び、誉めてくださる。

6、 心光常護

仏様が今、私を守り、見守ってくださっている。

何か本当につらいことがあったり病気の時は、心配してくれる人には心配するなと言いながら、もうすっかりいいねと言ってくる人には、もうちょっと心配してくれと思ったりする。

結局、私の苦悩を本当にわかってくれる人はいない、という孤独や寂しさを感じる時がある。

その孤独や寂しさがあまりつのると、秋葉原の事件のように、あるいは自殺のように、人を傷つけたり、自分を傷つけてしまう。

しかし、阿弥陀如来は、この私のことを本当に知っていてくださる、わかっていてくださる。
私自身が気づいていない、私の煩悩や苦しみまで見通してくださっている。
そして、私の苦しみを共に苦しんでくださっている。

そのような如来の御心に包まれ、守られていることに気付いた時に、人は本当に立ち上がっていけるし、立ち直っていける。


7、 心多歓喜

喜びが多く恵まれる。

煩悩が満たされることを喜ぶのではない。
そういう喜びが増えるわけではない。

そうではなくて、何気ないことの中に、生かされている不思議や喜びを感じることができる。
そういう豊かな感性が、念仏申し仏様の話を聞く人生には開かれて育てられていく。

8、 知恩報徳

仏の恩を知って、徳に報いる。
つまりは、御念仏申すことが御恩報謝、知恩報徳。

ただし、御念仏を申すことが恩返しということではない。

親が一番喜ぶことは、親が心から言うことを素直に聞くこと。

私が御念仏申すことが恩返しなのではなく、仏・親様が念仏申せということを素直に聴き受けて念仏申すことが恩に報いることになっている。

9、 常行大悲

常に仏の大悲を行ず。
つまり、御念仏申すこと。

そこに、弥陀に常に見守られているという生き方が開かれていく。
仏の大悲の念仏を行ず。
そこに、仏の大悲の御心に見守られ、仏の大悲の御心を己の心として生きていく人生が恵まれていく。

10、正定聚。

上記の九つや、その他無量の徳をすべて含んだ徳が、正定聚、つまり御信心いただき御念仏申す人に現生に恵まれる救い・利益である。

(以上)