「人間の安心」  福沢諭吉『福翁百話』より

福沢諭吉『福翁百話』より

(七)「人間の安心」

宇宙の間に我(わが)地球の存在するは大海に浮べる芥子の一粒と云うも中々おろかなり。

吾々の名づけて人間と称する動物は、この芥子粒の上に生れ又死するものにして、
生れてその生るる所以(ゆえん)を知らず、
死してその死する所以を知らず、

由(よつ)て来(きた)る所を知らず、
去て往く所を知らず、

五、六尺の身体僅(わずか)に百年の寿命も得難(えがた)し、
塵(ちり)の如(ごと)く埃(ほこり)の如く、溜水(たまりみず)に浮沈する孑孑(ぼうふら)の如し。

蜉蝣(ふゆう)は朝(あした)に生れて夕(ゆうべ)に死すと云うと雖(いえど)も、人間の寿命に較(くら)べて差したる相違にあらず。

蚤と蟻と丈(せい)くらべしても大象の眼より見れば大小なく、
一秒時の遅速を争うも百年の勘定の上には論ずるに足らず。

左(さ)れば宇宙無辺の考を以て独り自から観ずれば、
日月も小なり地球も微なり。

況(ま)して人間の如き、無智無力、見る影もなき蛆虫(うじむし)同様の小動物にして、
石火電光の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀楽の一夢中、忽(たちま)ち消えて痕(あと)なきのみ。

然るに彼の凡俗の俗世界に、貴賤貧富、栄枯盛衰などとて、
孜々経営して心身を労するその有様は、庭に塚築(つかつ)く蟻の群集が驟雨の襲い来(きた)るを知らざるが如く、

夏の青草に飜々たる〱(ばつた)が俄に秋風の寒きに驚くが如く、

可笑(おか)しくも又浅ましき次第なれども、

既に世界に生れ出たる上は蛆虫ながらも相応の覚悟なきを得ず。即ちその覚悟とは何ぞや。

人生本来戯(たわむれ)と知りながら、
この一場の戯を戯とせずして恰(あたか)も真面目(まじめ)に勤め、
貧苦を去て富楽に志し、
同類の邪魔せずして自から安楽を求め、
五十、七十の寿命も永きものと思うて、
父母に事(つか)え夫婦相親(あいした)しみ、子孫の計(はかりごと)を
為し又戸外の公益を謀り、生涯一点の過失なからんことに心掛(こころがく)るこそ蛆虫の本分なれ。

否な蛆虫の事に非ず、万物の霊として人間の独り誇る所のものなり。

唯(ただ)戯と知りつつ戯るれば心安くして戯の極端に走ることなきのみか、時に或(あるい)は俗界百戯の中に雑居して独り戯れざるも亦(また)可なり。

人間の安心法は凡(およ)そこの辺に在て大なる過なかるべし。