(2009年 秋のお彼岸に聴いた御法話)
以前、うちのお取次ぎのお寺であってた秋のお彼岸の御法話で聴いた話。
その御講師が、以前、瀬戸内海のある小さな島に御説法で行った時のこと。
三日間、一番前の席で座って聴いていたおばあさんがいたそうだ。
御法話がすべて終ったあと、そのおばあさんが講師部屋にやって来て言うには、
自分は耳が聞こえない、だからあなたの御話は実は何も聴けなかった、だが、これでこの島に嫁に来てから65年、一度も欠かさずに御法座に参ることができた。
自分の姑は、自分が島に嫁に来た時に、家に行く前にまず島のお寺の阿弥陀様にごあいさつに連れて行くぐらい、御法義の厚い人だった。
その姑が亡くなった後も、お寺参りはずっと欠かさずにきた。
いろんなご縁にあって、いろんな御説法を聴いたが、今はすべて忘れてしまった。
ただ、ひとつだけ忘れず、のこっているものがある。
それは「おかげさま」ということ。
と、ただそれだけを言って、おばあさんはまた帰っていたそうな。
なんだか、とても心に残る話だった。
御法義というのは、「当たり前」ではなくて、「おかげさま」と見る目が開かれていくことなのだろう。
それは、すべて忘れてしまったあとも、ずっとのこってなくならない唯一のものなのかもしれない。