鷲田清一先生の講演メモ
(2008年9月9日 テーマは「21世紀の教養」)
教養とは、知識や情報ではなくて、知識や情報をどういう風に組み立て、どう使いこなすかの術である。
教養とは何か。
1、 価値の遠近法
2、 思考の肺活量
まず、1の価値の遠近法とは、物の軽重の判断であり、本当に大事なもの、なくてはならないものは何か、あるいはあってもなくなくても良いもの、さらにあってはならないものなどがわかることであり、この価値の遠近法を持てることが教養である。
そして、そのことに付随して、
昨今、実学と虚学とかいうことが言われて、役に立つ資格などの勉強が実学で、哲学などは虚学だと言われだけれど、一番最初に「実学/虚学」という言葉を使った福沢諭吉はぜんぜんそんな意味で使ってない。
福沢は修身道徳を実学の大事な科目に入れている。
福沢が虚学といったのは、時代の課題に見向きもせず、単に机上の空論のような、生き方と関わらない学問を虚学といい、時代の課題に向き合って生き方がそこから引き出される学問を実学と呼んだ。
しかし、虚学批判などや、その他いろんな要因によって、今日教養の弱体化が進んでいるが、これは
教養の弱体化=思考停止の時代
ということである。
極端な思考、ワンフレーズポリティクスや、粗雑な言葉がはびこる時代となっている。
たとえば、勝ち組・負け組みなどというのも、ものすごく粗雑な言葉で、金を稼いだかどうかというとても単純な思考。しかも、自分もまたいつかは負け組みになるという想像力がまったく欠落している。
粗雑なことばというのは、不安の強度を強めるだけで、なんにもならない。
複雑なコンテクストに一切配慮しない。
よく、今の時代を「イデオロギーが終わった時代」という人がいるが、それは違う。
イデオロギーの本来の意味は、「誰も表立って反対できない思想」という意味であり、そういう意味では、今ほど「イデオロギー」が氾濫している時代はない。
情報公開・コミュニティ・公共性・改革、などの言葉が、イデオロギーとして機能し、誰も表だって反対できないし、奥行きのない平板な言葉として使われても、あたかも正しいもののように機能して誰もさからえなくなっている。
次に、2の「思考の肺活量」ということについて。
教養=思考の肺活量、というのは、つまり、どこまで問題にもぐっていけるか、ということ。
ワンフレーズで問題を単純に思考停止して割り切ればラクではあるけれど、この世の中には簡単にはわからない、いろんな対立を抱えた、よくわからない問題がある。
その、本当はわからない、という問題に、どこまで耐えられるか、ということを、思考の肺活量と呼びたい。
政治も、本当は先のことはわからず、そのつどそのつど、よくわからない、本当はわからないという問題に、しかしながら正確に対処しなければならない。
看護や、あるいは芸術というのもまたそうしたもので、わからないものとの格闘である。
問題なのは、そうした本当はよくわからないものを、勝手にわかったつもりになって決め付けたり、割り切ってしまうことである。
「わからないものに耐える」
「わからないままに寝かせておく」
「わからないけれど大事だぞ、という感覚をしっかりもって、わからないままに大事に向かい合い続ける」
そうしたことが、いまあまりにも軽んじられていまいか。
解決がなくても、対立があっても、すぐに解決しようとせず、そのままに対処する、対立の複雑性の増大に耐える、そういうこととは、まったく逆のことばかり現代人はしている。
不安・わからない問題に、思考の肺活量がないと、わかりやすい物語に飛びつき、問題の解決を自分で担わなくなる。
近代・現代は「サービス」の社会だが、サービスというのは、実は恐ろしい問題をはらんでいる。
教育も、介護も、出産も死も、人生儀礼も、料理や世話も、いろんな紛争の処理まで、
いまはすべて、専門家・プロのサービスにゆだねるようになってきている。
むかしは家族や地域社会でやってきたことが、どんどん外部のプロにゆだねて、どんどん無能力化し、責任を引き受けなくなってきている。
しかし、そうした中で、再び、単なる無能力なクレームだけ言う人間としてでなく、自らの責任を引き受けていく人間になる、citizenになるというのが、二十一世紀の課題ではなかろうか。
なぜ教養を身につけなければならないか。
それは、責任をもって生き、極端な単純な思考やイデオロギーに乗ってしまわないようにするため。
他のコンテクスト、見えてなかった人の多面性を、しっかり受けとめていく。
わからないものをわからないままにぐっと堪える。
何が大事かということがわかる価値の遠近法をしっかり持っている。
そうしたことが、これからの時代には特に求められるのではないか。
これからの教育は、誰かにこちらが何を教えるかではなく、誰かが何かを勝手に学ぶ、勝手に育っていく、そうした環境をどれだけ整備するかということ。
人に何かを教える、ということよりも、その人本人が自由に自分で勝手に学びたいと思って学ぼうとする行動を、どれだけサポートできるかが、大学教育というものではないか。