白居易 「念仏偈」

白居易 「念仏偈」


余年七十一,不復事吟哦,看經費眼力,作福畏奔波。
何以度心眼,一聲阿彌陀,行也阿彌陀,坐也阿彌陀,
縱饒忙似箭,不廢阿彌陀,日暮而途遠,吾生已蹉跎。
旦夕清淨心,但念阿彌陀,達人應笑我,多卻阿彌陀。
達又作麼生?不達又如何?普勸法界眾,同念阿彌陀。


余年は七十一,復た吟哦に事(つか)へず,經を看るに眼力を費やし,福を作し奔波を畏る。
何を以てか心眼を度さん,一に阿彌陀の聲,行して阿彌陀也,坐しても阿彌陀也,
縱(たと)ひ饒(にぎや)かにして忙きこと箭に似たれども,阿彌陀を廢さず,日暮れ而して途遠く,吾生已に蹉跎す。
旦夕に清淨なる心にて,但だ阿彌陀を念じ,達人應じて我を笑ひ,卻って阿彌陀多し。
達するに又いかんぞ? 達せざる又如何? 普く法界を眾(しゅう=衆)に勸め,同じく阿彌陀を念ず。

私の年は71歳、もう詩は作らずに、教典を見ることに力を使い、善行を積むが荒波にひっくり返されるのを恐れている。
どうやって心眼を修めようか、まず弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)を唱え、何かするときも南無阿弥陀仏、休むときも南無阿弥陀仏
たとえ富裕で矢のように忙しくとも、南無阿弥陀仏と唱えるのをやめず、人生の終わりも近いがなお仏道修行は遠く、私の人生はつまづき倒れている。
朝夕に曇りのない心で、ただ一心に南無阿弥陀仏と唱える。悟ったような人がそれを見て私を笑うが、かえってたくさん名号を唱えるのだ。
どうすれば達することが出来るのか? 達せないのは何故? あまねく仏教を皆に勧め、ともに南無阿弥陀仏と唱えようではないか。