石川三四郎 「無政府主義宣言」

石川三四郎 「無政府主義宣言」

一、

 我ら無政府主義者は今日の日本と日本民族とを救うべき道はただ無政府主義の原理を実行するにあることを宣言する。
そもそも無政府社会は平等なる万民の自由協調によって成立する。
ゆえに無政府社会の建設にはまず強権を排絶して平和境の開拓を前提とせねばならぬ。
いかにして平和境を開拓すべきか。
曰く、万民が一切の旧習と因縁とを断絶して一切事を自治するにあり。
自治せんがために協同するにあり。
これは近代国家成立以前に、我らの祖先が、その村落において半ば実行し来たれるところであった。
自治協同の平和境においてこそ新しき日本文化は花開くのである。
官僚来るも、軍閥来るも、耳を傾けることなかれ。
財閥来るも、政治家来るも顧みることなかれ。
諸君の事務は諸君自ら処理し、隣人と共に協力して一切の難関を突破せよ。


二、

 終戦以来半歳、つらつらわが国の指導階級と称する徒輩の言動を観察するに、彼らはこの未曾有の国難に際してただ己れらの利福、党派欲、閥欲を満足せんがために、喧号叫喚して国民をますます混乱の深淵に追い込もうとしているに過ぎない。
今日まで忍びに忍んで沈黙の苦悩を守って来た我ら無政府主義者も、ここにおいてか胴ぶるいして起たざるを得なくなったのである。

 我らはまず日本全民衆の和合を求める。
ゆえに戦争犯罪者の糾弾はこれを強力なるマッカーサー司令部に全任して、我らは全日本民族が冷静に帰り、正直にしてかつ心からの和合を取り戻さんことを要求する。
我らは他人を責める以前にまず自ら省みる。
我らは自ら故国の熱血身に溢れるを感じながら、省みて甚だ力の足らざるを歎くものである。

 しかしながら、大気の中には瞬時にして消散する蒸発気も汽鑵内に結集すれば巨大な動力となる。
これと同様にわれわれもまた団結によって真の力を無限に強化することができる。
幸いに我ら日本民族は深く平和を祈念して、かの終戦の大詔を渙発せられたる今上天皇を有す。
近時軍閥の横行・跋扈は実に眼に余るものがあった。
今上天皇がこれを深く憂えたことは万民等しくこれを知悉する。
しかも一朝終戦の大詔渙発せらるるや、一千余万の外征兵士は流石に一糸乱れず武器を擱(お)いてこれに従うた。
この如き事実は世界の歴史開闢以来未だかつて見られざりし一大脅威事であって、この平和主義の天皇の下においてのみ見られる特異事と言うべきである。
終戦の大詔において天皇曰く、われ「常に国民とともに在り」「万世の為に太平を開かん」と。
我らもまた曰ふ、われ等常に天皇とともに在り、以て万世不易の太平国家を建設せんと。

我ら無政府主義者の眼中には憲法もなく、天皇制もない。
人間の作製したこれらの技巧はもとより脆弱にして、明日をも期し難きものである。
しかしながら我らに宇宙の憲法があり、自然の天則がある。
これは世界古今に通じて悖(もと)らず、狂瀾怒濤に施して壊れず、万民悉く須臾も離脱し得ないものである。
我らの憲法は自然の人情美を発揚し拡充するを以て最高の原則とする。
我らの天則は人心の奥秘より自ら湧出する人道の大義を実践躬行するを以て第一義とする。
わが清純高雅なる今上天皇を我ら無政府主義が敢えて擁護せんとするは、実にこの天則、自然の憲法に基づくものである。
「我が身は如何に成り行くとも、此の上多くの人民を犠牲にするに忍びず」とて、自ら屈辱を忍んで無条件降伏を断行せられたる、愛と和とに勇敢なりし天皇を擁護するは、これ日本民族の責務にしてまた名誉ではないか。
満洲事件以来、軍閥の跋扈は実に横暴を極むるに至った。
しかしながらその禍害の根ざすところは遠く明治時代にあり、今上天皇は実に四十年来わが日本の政治機構中に培養せられ累積せられし悪弊凶禍を一身に負担せられたのである。
我らこの天皇を擁護するは人道の大義に基づく当然の責務である。


三、

 日露戦争の当時、西欧の学者・批評家等は、日本を以て東洋における唯一のヨーロッパの出店とし、かつ日本人はヨーロッパ人より以上にヨーロッパ化せり、と批評した。
爾来今日に至るまで、日本人は遂に自ら日本そのものを忘却したる如くであった。
かつて第一次欧州大戦直後にデモクラシイの運動があり、ボリシェヴィキの運動が起り、次ファッショの流行となり、ナチの模倣となり、全体主義と称し、統制経済と称し、称うるところ、行うところ、一として外来借用物でないものは無かった。
甚だしきは民族主義国粋主義と称するものまでが、その精神において西欧の借用物に過ぎなかった。
我らは曰う、満州事変以来、日本軍閥の採り来たる行動は本来の日本精神に基くものでなく、また真の西洋精神に則るものでも無くて、実に西洋かぶれの帝国主義に外ならぬと。
しかり今回の敗北のごときも実にその西洋かぶれの敗北なのである。
ただこの長き民族的悪夢の中において、わずかに一閃、真の日本精神が輝いたのは、彼の大詔渙発を中心とする終戦の一齣における日本そのものの姿においてであった。
我ら日本民族は今一度あの一瞬を想い起して、緊褌一番、互に腕を組み、心を揃えて、故国の大義に前進すべきではないか。

しかしながら、官僚、軍閥、財閥を始として、その周囲に蝟集せる政治集団が、すでに悉く失脚せる今日、国民諸君はいかにしてこの国難を突破せんとするか。
第二の官僚主義たる社会主義共産主義の統制組織が決して民衆の平和と幸福とをもたらすものでないことは、ソ連その他の社会主義国の実情に徴しても、またわが国の社会党共産党の態度に見ても、自ずから明白較著の事実ではないか。
彼らの目指すはただ政権の壟断であり、そのための共同闘争であり、そのための労働階級糾合である。

我ら無政府主義者は政権を要求しない。
したがって政党組織を必要としない。
我らの要求は政権そのものの撲滅である。
我ら全部が天皇を中心にして和合して自治する時、何の政権ぞや。
何の政府ぞや、事態は極めて簡単である。
鉄道員をして鉄道を自治的に運営せしめよ、通信員をして自治的に通信事務を処理せしめよ。
教員をして教育を、鉱員をして鉱業を、航員をして航業を、農民をして農作業を、皆それぞれの職場において和合自営せしめよ。
そして各職業員をして総和協同の事務を整備展開せしめよ。
どこに政府の必要ありや、どこに政党の必要ありや。
政府も政党も政権も、人民を強制し、搾取する以外に、いかなる意義もなく、いかなる目的もないものである。
この簡単明白なる事理を解せずして、いたずらに豺狼のごとき官僚政治家、狐狸のごとき政党人の甘言と欺瞞とに蠱惑せられんか、わが日本国民の運命は知るべきのみ。


四、

 資本主義経済学の祖と言われるアダム・スミスすらも「政府は社会の最大浪費者なり」と言うた。
我らは曰う「最善の政府は最悪なり」と。
強力な政府ほど人民のためには悪いのである。
もし人民が自ら協同して自己の生活を建設展開するならば、政府は弱体なるほど善いのである。
そして遂には無政府、無政権にまで到達するを可とするのである。
この頃「上意下達」「下意上達」なぞという言葉が流行する。
これは機械的なピラミッド型政治機構に当然生起すべき疎通杜絶の悪弊を曝露する一種の悲鳴に過ぎないのである。
近時の日本は、この小国土の上に厖大な官僚組織のバベルの塔を築いたために、今やそれ自らの重圧によって轟然崩壊の悲劇を演じつつある。
これは単に政治機構についてのみ言うのではない。
すべての方面の社会組織が同一型の官僚組織を成しているのである。
それが今や総崩れとなって一大動乱を起したのである。
政府は選挙法改正、憲法改正、などと姑息な弥縫策を施そうとしているが、すでに地震は土台の底から破潰したのである。
国民の眼前にはバベルの塔が現に倒壊しつつあるのである。


五、

 無政府社会においては自然発生的な網状組織は発達するが、機械的なピラミッド型の組織は成立しない。
無政府社会においては、求心的な協同精神と分治的な自治心とは網状組織を伝うて無限に発達するが、上下の階層も階層間の疎隔も決して生起しない。
社会生活に無数の中心はあるが、いわゆる、上部組織は成立しない。
仕事に系列分業はあるが階級は認められない。
経営に趣意の伝達は必要であるが命令は行われない。
相互の理解によって協力するが、強制による服従は行われない。
およそ平和な民族的国家を生活するには、これにて充分なのである。
こうした無政府社会においては、すべての労働は芸術となる。
すべての芸術は世界人類の祭典に神聖なる行事として奉献せられる。
かくて我らの真正なる民主主義、美的民主主義は、ほぼ完成せられるであろう。
それは真の日本精神であると同時に、また西洋社会精神の真髄でもある。


六、

 我らは日本国民全体に訴う。
いかなる層に属する者も、いかなる職に携わる者も、諸君自ら掌を胸に当てて、しばし沈思黙考せよ。
今日の国難に会して諸君はいかなる環境、いかなる運命に逢着しつつあるかを三思五省せよ。
諸君を救うものは、日本国民を救うものは、結局、諸君自らであり、日本国民自らであることに思い及ぶであろう。
それは一切の繋縛から離脱した赤裸々な諸君が、自ら奮起して近接せる同胞と和合協力して、まず身辺より清掃し建設することから開始されねばならぬ一新事業なのである。
諸君が従来頼んで来たすべての指導層が、決して諸君の友でなくまた協力者でないことは、今日の国難に際して余りにも詳らかに明示された。
諸君がこれに眼覚めて、自ら赤裸々な孤独の自己を見出した時、諸君は即時に無政府主義者となったのである。
ただ孤独は淋しく、孤独は弱い。
幸いに頭を回せば、諸君の周囲には、諸君と同じ心境に在る隣人が、諸君の差し延べる手を待っている。
我らは思う、今や日本国民中、殊に日本の青年中、本心において無政府主義者とならないものはほとんど一人も無いであろうと。
もとより多くは無政府主義の名を未だ意識せぬであろう。
しかしながら無政府主義は特殊なドグマ(教義)ではない。
無政府主義は人類の自然至純な姿を求めて、それを現実の社会生活に展開せしめようとする解放の科学なのである。
旧い社会の塵埃を洗い落して赤裸に帰った無垢な人々が自ら無政府主義を奉ずるに至るは、まことに当然のことなのである。


重ねて言う。
我らは政府も政権も要せず。
したがって我らは政党を排斥する。
我らは日本国民そのものである。
それにて充分である。
我らすべてが平等の地に立って、自治し協同して、産業を起し、学問を究め、芸術を磨き、共に栄え、共に輝き、以て「太平を万世に開く」ことを得たならば、これほどの民族の幸福は無いであろう。
これほどの民族の光栄は無いであろう。

全日本の国民よ起て!
全日本の青年よ起て!

この千古未曾有の国難を転じて、わが国をして世界太平の一中枢たらしむべく、諸君は一斉に奮起すべきである。