石川三四郎 「大乗無政府観」

石川三四郎「大乗無政府観」 (昭和9年)

 ヒットラーが大統領に確認された。こしらえごとにもせよ、恐怖の結果にもせよ、とにかく、大多数の投票を獲得した。彼はいよいよ完全に独裁官になった。イタリアのムッソリーニと同様に。
 だがしかし、ヒットラームッソリーニも、はたして真に独裁しているであろうか。また独裁し得るだろうか。
 大多数の投票を経ねばならぬという点からして既に大衆に依存するものではないか。また彼らがいつも周囲に反撃者のあることを警戒して、あたかも敵弾中に捕虜になっているような −もちろん多数の味方を引き連れてはいるが− 心組で居らねばならないのも、彼らが真の独裁権者たり得ないことを証明するものではないか。
 さらにまた、彼ら一歩国境の外に出れば、すぐに堅い壁に突き当たって、それに対しては全然自由権を認められない。彼らの独裁は極めて狭い殻の中でのみ行われるに過ぎない。さらにそれを国家の生命から見たならば、わずかに一瞬の間の生命に過ぎないであろう。いわんや永い人類の生命からこれを見れば、その無常迅速なること、まことに憐れむべき存在であると言える。
 
 しかし、それにしても彼らは、十八、九世紀の西洋の人心を支配した自由、平等、友愛の精神を蹂躙したものであることは確かだ。この意味において吾々自由主義者の敵であることもまた確かなことだ。最初から、排他的、非社会的な主張と行動とによってその目的を達した彼らはまた社会の敵でもある。
 しかるに、こうした社会の敵がたとえ脅迫の結果にもせよ、大衆に依存して生活する。やはり、その源をただせば大衆の責任である。日本では政党の堕落、選挙運動の腐敗、が評判になっているが、これも問い詰めれば大衆の腐敗が原因をなしている。しからば、かように大衆が堕落するのは何故であるか。それは主として近代の資本主義制度がもたらすところの経済的圧迫に基くと言える。しかるにその資本主義的制度というものはいかにして出来たか、こう押詰めていくと論理の糸は際限なく続がって人類歴史の全過程、全勢力が原因をなしていると言える。その責任を尋ねれば、したがって全人類の上にかかって来る。
 されば今日の人類社会生活の敵とも見るべきムッソリーニヒットラーをして権勢を檀(ほしいまま)にせしめるのは、畢竟するに大衆の意思如何によるのである。人類そのものの意思に −それが歪曲されたと否とにかかわらず− 基くのである。意識するとせざるとにかかわらず、人類が自由を欲するか、奴隷に甘んずるかの生活態度に基くのである。こうした独裁専制が行われるのは民衆がそれを歓迎したのでないとしても、少なくとも今日まで反撥するの力と勇気とを持たなかったことに原因するのである。
 こうした力と勇気とを欠くのは大衆の無知に基くこともちろん多大であるが、しかし永い間奴隷的生活とその風俗道徳とに慣らされたことが最大の原因をなしているであろう。家畜となった犬は、自分を打擲する主人に尾を振ってひれ伏しさえもする。習慣というものは恐ろしいものである。自分を搾取し束縛する強権者を讃美する現代の世界人類はこの犬の如く飼い馴らされたのである。奴隷に売られながら『獅子は決して飼主にも馴れない』と叫んで、主人に服従しなかったディオゲネスが稀有の人物とされる所以である。

 今日の世界の状態を見れば、自由は人類の本性に背くかの如く見える。人類は決して自由を欲求しかつ楽しむ動物ではないかの如く見える。しかしながら静かにファッショやナチスの成功を考察してみると、実は一種の自由の要求から起っていることも看取される。それは個人の自由ではないが『民族の尊厳自由』ということである。
 ファッショが起ったのもそれである。イタリアは欧州大戦に連合国側に参加したが、ヴェルサイユ平和会議にはすこぶる不利の立場に置かれて、一度は席を蹴って会議を脱退しさえした。そのうえ国内の状態は四分五裂して統一ができず、戦後の国際対立の間にあって最も危険な地位に自国をさらしたのであった。この時にムッソリーニの結束主義 −ファシズム− が成功したのはまことに当然だと言える。
 ナチスが成功したのもやはり、ヴェルサイユ条約の重圧に堪え切れないドイツ国民の反抗心に投じたためである。
 世界大戦の結果、国家間の対立関係が尖鋭化したために、いずれの国も国家的統制に注意を集注してきたことは争われない。しかし、ファッショだの、ナチスだのという反動革命が、英国や米国あフランスに成功しない点は注意を要する。そして英米や、フランスは勝利者中の頭目であって、戦争の後かたづけの主動者、指揮者であったことを顧みれば、その理由は明知されるであろう。即ちこれらの諸国民は国際間における民族的自由を叫ぶべき根拠を持たないのである。彼らは民族的自由と尊厳とに比較的に多く満足しているからである。

 専制や独裁が自由の名において行われる。甚だ滑稽な矛盾ではあるが、これが無明に迷っている人生の実状だ。民族自由の名に隠れた資本主義の自由もここに動いている。国家資本主義のボルシェヴィキは革命擁護の名において専制的軍備を拡張する。いずれも同じ心理状態から出た現象である。
 しかし私のここに見出そうとすることは、そうした表面的の事実ではない。以上のごとき逆行的集団行動はそもそも何を物語るか、を突込んで検討することが私のここに思い立った題目である。
 私の見るところを以てすれば、民族の自由、資本主義の自由、革命の擁護、等の定則は、民衆の無意識的自由要求を誘惑し利用したものである。慣習と伝統とを破って新生活を自分勝手に建立するムッソリーニヒットラーは、意識の顛倒した無政府主義者である。なぜなら、すべての民衆がムソやヒットを模倣したなら、この世にムソもヒットも独裁者となり得なくなるわけである。そして世界は全然無政府状態 −あるいは乱世−となるであろう。この乱世の意味における無政府状態こそ、実に人生の無明界から吾々の理想的無政府を立証するものである。無明界の現象も人生の生活である。光明生活の影であり半面に過ぎない。その動向は多くほとんど同型をなすものである。ただ面の表と裏との如く凸凹相反するのみである。表面の突出せるところ裏面は窪んでいるのみである。
 乱世的無政府の自由は強が弱に対する圧迫となるが、理想的無政府の自由は強が弱に対する協同となる。凹と凸との差である。そしてムソやヒットが専制をする場合にもなお『国民協力』の名においてするのは最も興味ある天啓であると言える。吾々はムソやヒットラーに依ってさえも、吾々の無政府主義が人生の帰趣であることを示証せられることを喜ばないではいられない。

 私は拙著『歴史哲学』の冒頭において次の如く言っている。『歴史は無常である。人類生活の時間上における無常と無強権とを権威を以て吾々に示すものは世界の歴史である。…国の東洋と政党とを問わず、人種の黒白紅黄を問わず、いずれの歴史の、いずれのページの、いずれの文字にも諸行無常、有為転変の哀音を響かせぬものはないであろう。いずれの時代を問わず、いかなる制度政体を問わず、その歴史は必ず、栄枯盛衰の暗色に隈どられ、生者必滅の苛法に処せられている。
 『だがしかし、空の空なるか、すべて空なり、と一切を放擲すべく吾らはあまりに深刻な印象を歴史から受ける。…諸行無常の中にも、有為転変の中にも、世界の人類が常に闘争を以て追求して来たものが一つある。時と場所とに従って名は異なり、形は相違するが、それを一言にして言えば「美」である。いかなる強権も永続せず、いかなる政体も長久ならず、すべてが覆えされ、すべてが亡ぼされるのはこれがためである。それは諸行無常というよりはむしろ諸時無政府と言うべきである。そこには人間の無力を示す無常観よりは、むしろ人間の意力を察すべき闘いの生命観が動いている』
 これは時間上における人類生活の無政府を説いたものである。ムソやヒットの例は現在の生活における空間的無政府を −無明的無政府を− 説示するのであるが、人類一切の歴史は時間上における無政府生活を物語るものである。歴史が無常にして常に流動して止まないことを悟った時、ある強権に執着するほど愚かなことはあるまい。自ら在来の強権を破壊して、しかも自ら新しい強権を自立したムッソリーニヒットラーもさらにレーニンも、皆な無政府の光明界に咲いた無明の花である。

 彼らは破壊においていささか人類の光明を把握し、無政府の生命を呼吸したが、建設に及んで無明界に堕ちた。憐れむべき彼らは人類の無政府、歴史の流動に徹底することができなかった。もちろん、それは彼らのみの罪ではない。大衆がそれを悟らない限り、少なくとも大多数の中堅人物が、それを解得しない限り、乱世的無政府から協同的無政府へと転進することは不可能だ。
 問題は大衆にかかる。いかにして大衆に悟らせるか。大衆は自覚せざるアナキストだ。大衆という生活そのものが、アナキストの生活だからである。大衆を統制すべく警察を必要とし、軍隊を必要とするのは、彼らがアナキストたる所以である。
 もし軍隊もなく警察もなくして、大衆が今日の社会生活を保持し得るならば、それは無自覚のアナキストが自覚する結果で、吾々の理想社会は停滞することなく進展するであろう。
 しかるに今日はこの宇宙の大法則たる諸行無常に抵抗するつもりでムソやヒットが騒いでいる。無明アナキストは光明アナキストのすぐの隣人でありながらマラテスタやルドルフ・ロッカーを迫害する。彼らは自分らが今現に生活している世界のアナアキイそのものを認識し得ないでいたずらに螺のような甲角の殻の中に蹲踞して得意になっている。そしてまたそれを羨望する痴漢がいたるところに雲集している。皆アナアキイの奇形児でありながら、正形児らしい顔をしてアナアキイを敵視する。自分の影におびえているのだ。
 人間が恐れる神でも悪魔でも皆その性質が人間に似ている如く、彼らが恐れるアナアキイはあまり多く彼ら自身の本性を反映しているのである。そして彼らが神様にも悪魔にもなり得ない如く、アナアキストにもなり得ないのである。
 吾々は彼らが神になることも悪魔になることも欲しない。彼らが真に彼ら自身に眼醒めた時、彼らは真人間となりアナアキストとなるであろうから。