(2009年11月記す)
なかなか面白かった。
石川が言うには、無政府主義は普通の社会主義と異なり「心理的改造」に重きを置くそうである。
心理的改造とは、「我々の社会生活における相互関係の見方、感じ方を改造すること」であり、宇宙観人生観の改造らしい。
すなわち、無中心・無強権の宇宙観と、そこから逸脱した社会や人生への批判的な視点を持ち、無中心・無強権の社会を目指すことらしい。
ピラミッド型ではない網状組織の、個人の発意・個人の意匠が尊重される社会を目指し、産業の自治や分散が図られるという。
かつ、そうした無政府主義の実現方法として、労働組合・農業組合・消費組合の三つの組合における自治や自由協同の訓練・充実が説かれている。
また、思想家の役割は、あくまで過渡期のものであり、できるだけ労働生活を送りながら無政府主義の発電機として啓蒙に努めるもの、とされていた。
そして、ボリシェヴィキの強権的社会主義を鋭く批判してあった。
また、無政府主義は、人類に長い間培われてきた事大主義と排他的感情を克服するべき人生観の改造や心理的改造であることに重点を置いて説かれていた。
七十年以上前に書かれたものに、なんだかとても新鮮な気がした。
昨今の労組や農協や生協には、どこまでそうした宇宙観や人生観の改造という理念や理想があるのだろう。
おそらくあんまりないのではないかという気はする。
また、事大主義や排他的感情というのは、今も根深く日本および人類に巣食っているものかもしれない。
無強権・無中心の社会が本当に実現するのか、組合主義などでそれが実現できるのかは、正直私にはよくわからない。
しかし、この文章の冒頭で、石川が以下のように言っているのは、たしかになるほどなぁと思った。
「無政府主義は空想だということをしばしば耳にする。
それは実行可能性がないからだというのである。
もし無政府主義が実現の可能性を持たないとすれば、人類そのものが、解放される可能性を持たないということになる。
しかるにレーニンでも、社会民主主義者でも、最後の理想は無政府主義だけれども、一足飛びには行けぬ、というのである。
だが、誰も一足飛びに行けなぞとは言わない。
ただ真の人類の解放に向って進むのなら、その方向を選ばねばならぬ、というのが吾々の考えなのである。
京都に行こうという目的で、まず北海道に行く馬鹿がないごとく、自由と正義の支配する世界を建てるに強権主義を目指して進む必要はあるまい。」
(「無政府主義講座」 著作集 5巻 383頁)
という言葉は、本当にそのとおりと思った。