石川三四郎 「無政府主義の原理とその実現」を読んで

(2009年11月記す)


石川三四郎の「無政府主義の原理とその実現」(著作集五巻所収)を読み終わった。
かなり面白かった。

石川が言うには、世界に現われたもろもろの思想はすでにことごとく失敗し、人類解放に任ずる資格を喪失してしまった。
ただひとつ、最後に残された光明が無政府主義だという。

なぜ無政府主義が光明と言えるかについて、宇宙観・人生観・政治観から論じる。

石川が言うには、現代の宇宙理論は無中心のいたるところに中心がある相互的なものである。
無政府主義は、その宇宙理論に照応しており、無強権・無中心であり、この無限の宇宙を家とし、自然に還る・自然法爾のものという。

かつ、「我思う、ゆえに我あり」とデカルトは言ったが、実は宇宙大自然あるがゆえに、私が生きている、という。
言葉にしろ衣食住にしろ、私自らつくったものでなく、地球に人類生まれて以来の世界の総同類の労苦と精進の賜物という。

しかし、政治とは「我」が他を治めること、または支配することである。
「我」の宗教を信ずるがゆえに、一切の社会悪も生まれる。
官僚・政党・財閥などの寄生虫が生じる、という。

そこで、こうした夢遊病から醒めて、無強権の自治を目指すのが無政府主義だという。

石川が言うには、無政府社会の機構としては以下のようなものが考えられるという。
すなわち、経済的協同機構(消費者協同組合、生産者協同組合、運輸協同組合など)や、文化協同機構(文学・美術・工芸・教育・科学・宗教など)、融通機構(相互銀行、統計組合など)、中央協同委員会(上記の諸組織の連絡と、融通機構と外交機構を直属とする)、といったものらしい。

そして、無政府主義の実現としては、

「第一に無政府主義は否強権であるがゆえに攻撃的暴力は避けなければならない。
第二に無政府主義自由連合主義であるがゆえに永い経験と訓練とを必要とする。
第三に思想の確立せられないところには無政府社会は樹立し難きがゆえに啓蒙・教育の為事がもっとも肝要である。」

(「無政府主義の原理とその実現」 著作集五巻 449頁)

ということが言われ、

つまり、非暴力と、自由連合の長い経験の蓄積、思想の啓蒙・教育が
三つの柱として言われる。

かつ、「地理的重点主義」ということが述べられ、現代社会内に可能な限りの自由協同社会を実現し、その地区を繁盛させて他の人々にも魅力ある姿を示して誘ってみることが述べられている。
その方途として、相互銀行を徐々にその地域に発展させ、農業・工業・消費・生産の組合をつくることなどが述べられている。


いたってユートピア的といえばユートピア的かもしれないが、なかなか面白いなあと思った。

世にしばしば抱かれるところのアナーキスト無政府主義の破壊的なイメージと全く異なり、いたって穏健で平和的なものとも言えよう。

実際にどこまでできるかはよくわからないけれど、ある一定の区域内でも、相互銀行や生産者の自主管理の組合をつくって発達することに成功できれば、もしその地域社会が幸せならば魅力を感じる人も出てくるかもしれないし、資本主義の猛威をその地域に限っては食い止めることもできるかもしれない。

社会にはいろんな多様なモデルがあった方がいいかもしれないし、石川三四郎の上記のような理想と「地理的重点主義」は、なかなか今後示唆に富む面白いものではないかと思う。

一挙に世の中が革命などで良くなることはこれから先もおそらくありえないし、政権交代で社会が改良に進むことも部分的にはあってもそんなに劇的に良くなることは望めないかもしれないし、個々の一般市民ができることなどたかが知れているかもしれないが、上記のような夢を見て、自分のできる範囲で周囲に何かちょっと違った工夫をしたり思いを持って伝えていくことは、微力な個人にもできることなのかもしれない。

最近、地域通貨や地域の相互銀行・もやいバンクみたいな試みもいろいろあるみたいだけれど、それも長い目で見れば、遠い将来の無政府主義実現のための萌芽みたいなものなのだろうか。
千年ぐらいはかかりそうな気もするが、いきなり無政府主義社会は無理としても、相互銀行や組合などを充実させる努力というのは今の世の中でもできることだし、大事なことなのかもしれない。