石川三四郎の宇宙観と社会観

石川三四郎が「社会美学としての無政府主義」の中で言うには、各時代の宇宙観と社会観には密接なかかわりがあるという。

というのは、社会に対する観照には、宇宙的意識が直感を通して反映されるかららしい。

そういうわけで、

庶物崇拝時代の宇宙観とは、その時代の家族的土着社会が、

多神教時代とは、部落的連合社会が、

一神教時代とは、国家的統一社会が、

並行しており、それは各時代人の社会美観の相違を物語るらしい。

かつ、以下のように語る。

「しかしながら、その社会生活が同時代一般人の宇宙観と乖離するとき、言葉をかえて言えば、宇宙観と社会観が一味性を喪うとき、その社会生活は時代人の心に美的感激を起こさず、ついに崩潰の運命を辿ることになる。
天地自然と有機的に連帯しない社会が亡びるのは当然である。それは生命の根を絶たれるからである。
生命の根とは時代人の宇宙観である。」

(「社会美学としての無政府主義」 著作集三巻 198頁)

と述べる。

で、石川が言うには、

「今日の宇宙観には中心というものがない。
無限の空間の中にはいずれの点を中心とすべきかが分からない。
強いて求めれば各自が中心である。
従って中心は無数に多く存在する。」

ということらしい。

こうした今日の宇宙観と、国家を中心にした今日の社会は、もはやぴったり重なっておらず、今日の宇宙観には、無強権・無中心、つまり強制的権力やピラミッド型の機構のない、自発的で自由平等な連帯の社会、すなわち「複式網状組織」の無政府主義の社会こそがふさわしいと石川は説く。

宇宙観と社会観が並行を為すというのは、石川三四郎以外まずめったに他の人は言っていないと思う説だし、本当にそれが正しいと言えるのかはよくわからないが、たしかに上記にあげたアニミズム多神教一神教の世界観は、それぞれ家族社会・部族社会・絶対主義国家にだいたい並行しているような気もする。

今現在の宇宙観が、どこにも中心のない、あちこちに銀河や銀河団のある宇宙観だというのも、たしかにそのとおりかもしれない。

また、その現在の宇宙観と、国家中心の社会観が合致していないというのもそのとおりかもしれない。
石川三四郎が指摘した時代から、もう七十年以上経つが、今もってその合致していない、そぐわない状態は変わっていない。

ゆえに、石川のこの見方や予測が外れているという立論もできるかもしれないが、一方で、まだまだだいぶ先になるかもしれないが、徐々に石川の預言する方向になっているような気もする。

インターネットの発達などは、石川の言うところの「利害の一致した、または趣味の一致した民衆が自由にコムミユンを組織し、そのコムミユンが利害または趣味に従って自由の連合を拡張して行く」「複式網状組織」や無強権の自発的連帯というものの可能性を広げ、ある程度実現しつつあるようにも思う。
mixiなども、その部分的なひとつの形態と言えるかもしれない。

今はまだ「無強権・無中心」の社会など、あんまり想像もつかないが、徐々に石川三四郎の言うとおりその方向に進むのだろうか。
また、その方向にこそ、宇宙観との一致にこそ、社会の本当の進歩や達成もありえるのだろうか。

もしそうだとすれば、まだあと百年か二百年かかかるとしても、少しでもその方向に準備し、努力してみるのがいいかもしれない。

「生命の根とは時代人の宇宙観である。」

というのは、やっぱり無視することのできない、何か迫真性のある迫力ある言葉のように私には思われる。

とすると、いまいち私は天文学や昨今の宇宙理論にはうといのだけれど、それらもせっせと勉強せんとなぁ。。