昨夜、『世紀の遺書』をひさしぶりに少し読んでいたら、前田利貴という方の遺書があった。
陸軍大尉で、31歳で戦犯として処刑されたそうである。
名前から、ひょっとして前田家の係累だろうかと思い調べてみたらやはりそのようで、加賀前田家の分家の男爵家の跡取りで、馬術のオリンピック候補だったそうである。
現地の人から慕われ、裁判でも現地の人々は前田に有利な証言をしたにもかかわらず、死刑判決を受けた。
華族出身で学位もありすべてに恵まれたように見える前田に対し、検察側が最初から敵意を持っていたからだったようである。
獄中でクリスチャンになったそうで、遺書からは高潔な人格が偲ばれた。
それで、その遺書の中で、前田はかなり手厳しく日本の国民性を批判しており、自分が責任を負うつもりがないのに目立つ人に対して嫉妬し、引きずり下ろそうとし、本当の意味での団結や連帯ができない民族性であると論じていた。
おそらく何かしらのそう思わざるを得ない経験を経てきたのだろう。
『世紀の遺書』を読むと、前田利貴に限らず、日本の国民性やあり方に対して、深刻な反省と厳しい批判を多々見かけるが、はたしてそれらがどの程度きちんと戦後の日本に受けとめられて生かされたか、かなり疑問にはなる。